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zoom RSS 佐貫浩『教育基本法「改正」に抗して』を読む(2)

<<   作成日時 : 2006/07/15 23:09   >>

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 佐貫氏は、第三として、以下のように書く。

 「第三に、選択は、選択に当たって必要な条件や選択指標の傾向性によって、親・住民を分離させ、グループ化する力学が働く。学力格差、階層格差、宗教信条の違い、民族問題などが顕在化され、社会分離が促進される可能性がある。とくに学力等での選別が働けば、それらの分離と格差化はより促進される。社会内に分離への要素がある中では、選択はそれを拡大するように機能する。また学校ごとの学力格差は、学校の生徒自身が互いに影響を及ぼしあうことで生み出す教育力の大きな格差をもたらし、底辺校では荒廃が進むなど悪循環を引き起こす。」(p115)

 この部分は様々な面から検討する必要がある。原理的な問題、実際に起きる事実の問題、そしてその評価の問題等が複雑に絡んでいるからである。
 まず厳密にいって、氏の主張に間違いがあることは指摘しておこう。
 まず、選択が住民を分離させるという点は根拠のない主張であろう。そもそもずっと昔ならいざ知らず、今は学校が地域住民のまとまりをつける組織ではない。小学校と中学校で学区が異なることでもわかるし、また、学校に通っている子どもがいない家庭だってたくさんあるのだから、地域と学校関係者の集団はまったく無関係とはいわないが、学校が選択されたから地域がグループ化するなどというのは、あまりに学校中心的発想に過ぎないといえるだろう。
 次に学力等での選別が働けば格差化はより促進されるとしているが、ここで氏は「学校選択」ということを非常にあいまいに把握していることがわかる。選択と選別は明確に区別しなければならないのである。もちろん、選別の拡大を選択の拡大と考えている人たちがいることは事実である。しかし、特に高校におけるそうした政策は、もともと選別であって、選択ではない。義務教育において問題になっている学校選択は、選別はしないというのが、どの地域でも守られている原則である。選別をしない以上、住民の意識のありようによっては、格差はむしろ是正される可能性もあるのである。従って、学校選択が行われれば、底辺校が生じるというのは、間違っている。もし、選択の結果学力の低い生徒が集中的に集まる事態が生じたとしたら、それは別の重要な要因があったと考えるべきで、選択制度そのものの特質から生じたと考える必要はないのである。

 さて、本題に入ろう。
 学校選択が様々な局面でのグループ化を促進することは、確かだろう。しかし、それが全く悪いことであるかのように、佐貫氏はいうのだが、そんなに問題だろうか。むしろ、逆の問題がこれまでの戦後教育史の中にあったとまずは考えるべきではなかろうか。
 今の学校教育法がどのような歴史的経緯でできたかは、研究者によって明らかにされているが、最も直接的には1941年の国民学校令であるとされている。戦後改革で教育基本法ができたが、学校教育法は、教育基本法よりは、国民学校令の内容を多く引き継いでいることは、おそらく研究者の中では定説であると言ってよい。
 41年というのは、もちろん、国家総動員体制の中で義務教育組織を再編成したものである。そして、それ以前の学校制度にしても、氏が第一の理由でまったく対立するものとして書いた「国家的統制と競争的人材養成の論理」が貫かれているのだし、更に忠実な兵隊とよく働く労働者の育成が目的であったことは、否定しようのない事実だろう。
 そうした体制の中で、住居によって通うべき学校が指定されてきたことを氏は否定するのだろうか。
 何故学校指定が正当化されるのか、という問題について、こうした国家的論理を肯定しない人たちは、次のように説明してきた。
 つまり、国家が教育条件を公正、かつ平等に整備するのだから、どの地域に住んで、どの学校に通っていても等しい教育を受けられる、だから通学区指定が妥当なのである、と。 当時からかなり苦しい説明であったが、少なくともこの説明は現代では成立しない。
 第一に、国家が教育条件を平等に整備しているなどとは、誰も思っていないはずだからである。そもそも学校選択を実施したらグループ化が起きるという主張そのものが、教育条件の不平等を認識している証拠である。もし本当に平等に整備され、それを国民が納得しているなら、選択制度など導入することを国民が賛成しないだろうし、また、最も近い学校にほとんどが選択するだろう。つまり、制度があってもなくても同じ結果になるはずである。区域と違う学校を選択する親がいること自体が、平等な整備ということを親たちが認めていない証拠なのである。
 第二に、今の社会を前提にすれば、一様な教育が国民を満足させるのではなく、むしろ不満を生じさせるのが当然であるからである。もともと親の教育要求は多様であったが、日本では国家の教育目的を優先させることで、一様な教育が押しつけられてきたのではなかったのか。国民の教育が多様である以上、学校が多様になることは、唯一のあり方とはいえないにしても、ひとつのあり方には違いない。
 例えで説明しよう。
 ここに、小学校時代は勉強中心ではなく、スポーツでしっかり体をつくったり、また、遊びを十分にすることで豊かな人間性を育てて欲しいという親がいるとする。また他方、小学校時代とはいえ、何よりも勉強をしっかりさせたいと思っている親がいるとする。前者は宿題などは出さず、帰宅後は自由に子どもがやりたいことができるようにしてほしいと思っている。後者はどんどん宿題を出して欲しいと思っている。
 こういう子どもたちがクラスに半々いたとしたら、教師は両方に満足な教育を与えることはできるのだろうか。
 あるいは、個別学習や問題解決学習などの学習形態を重視する人たちがいる、また、他方系統的な学習、教科中心の学習を重視する人たちがいる。そういう両方を満足させる教育って、可能だろうか。
 このような違いは、それぞれ合理的な存在理由があるのであって、どちらかが正しいというものではなかろう。とするならば、むしろ、学校が教育方針を明示して、それにあった学校を選択できることは、多くの親や子どもたちが望むことであるはずである。実際に、世論調査をすれば、学校選択を支持する親が多いことは、佐貫氏でも否定しないだろう。
 それとも、そうしたことは学校や教師が決めることで、親の要求に応える必要はないとでもいうのだろうか。佐貫氏がそうした意見の持ち主ではないことは明らかだから、参加で解決できるとでも思っているのだろうか。親が参加したからといって、先のような原則的な考えが変わるとは思えないし、参加によって、合理的な両方を満足させる方法が出てくるとは私は思わない。
 さて、選択の結果学力格差が拡大するような状況が生じたとしよう。(前に述べたように、選択は必ずしもそうした結果をもたらすものではないのだが。)
 学力のレベルにあった教育を受けるということを、生徒たちは必ずしも差別とは考えない。同じ学校内で、能力別クラスを編成するときに、基礎的な学習をしたいということで、レベルが低いと考えられるクラスを自ら志望する生徒はいくらでもいる。自ら納得して、自らの意志でそれを選択した場合は、差別されたという意識はもたないものだ。
 それは学校選択においても同じなのではないだろうか。異なる学力の生徒を同じ学校、同じクラスにして、それぞれの必要性が異なるのに同じ教育を与えることが本当にいいことなのだろうか。現代社会のように複雑な職業構造をもっている社会では、様々な別の能力が求められるのであって、生徒たちは自分にあった仕事を模索し、そのための学びを欲しているはずである。そうしたことは生徒自身が選択することが最も適切な選択になるはずである。底辺校という言い方も、学力尺度という単純な指標、及び入学試験のような選別での分離を前提に考えるからで、生徒が多様な能力を求め、生徒自身が選択した場合には、荒廃などは、少なくとも今のような選抜制度下よりもずっと少ないと考えるのに合理的な理由がある。

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