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zoom RSS オランダの社会と文化 日本と比較しながら(40)

<<   作成日時 : 2006/08/09 21:46   >>

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   経済力による国家建設

オランダが世界史の主な役柄として登場するのは中世の終わりから近代にかけてである。当時ヨーロッパ北部で最も経済的に栄えていたのはドイツのリューベックを中心とするハンザ同盟だった。ニシンや毛織物が主な商品であったが、北部のホラントや南部のフランドルがやがて中心勢力となっていく。
 フランドルというと、日本人にとっては「フランダースの犬」で有名かも知れない。日本でだけ有名らしいこの物語は、イギリス人女性によって書かれた小説であるが、「フランダースの犬」で描かれた18世紀のフランドルは、既に繁栄期を過ぎたために「絶望的な貧しさ」が強調されているが、独立戦争中までの200年ほどは羊毛業を主軸に経済的に反映していた地域であった。北部ホラントはフランドルほどではないが、ニシン漁や海運で栄え始めていた。政治権力の支配の中心からは離れていたという利点もあって、経済に携わる人たちは都市を形成し、自治を拡大していった。
 日本の学校では、近代民主主義、人権を世界で最初に認めた文書として、1215年のマグナ・カルタをあげているが、恣意的な課税や裁判を禁じた内容を王に認めさせたという点では、フランドル・ブラバント地方の都市市民層が領主に対して認めさせた慣習法文書は更に古い。1066年のウイを初めとして多くの都市が認められた。現在のオランダの代表的な都市の一つであるユトレヒトも1122年に認められている。そして認めさせた「都市貴族」は土地所有や商業によって富裕となった人々であった。
オランダの経済力を支えたのは北海のニシン漁と羊毛工業であったが、羊毛はイギリスからの輸入に頼っていたので、いずれも海運業を発展させた。当時の海運は海賊との闘いでもあったから、優れた速度や強度、戦闘力の優れたハイテク産業を必要とし、オランダでは造船技術が飛躍的に高まった。ロシアロマノフ朝発展の礎を築いたピョートル大帝が、250名の使節を派遣して西洋の技術を学ばせたとき、オランダでは大帝自ら身分を隠して見習工になって造船技術を学んだことは有名である。
 造船技術は急に発展したわけではなく、オランダの象徴ともいうべき風車技術が土台となっていた。オランダ以外では風車は粉ひきなどの比較的狭い範囲で使用されていたが、オランダでは死活的重要さをもっている排水をはじめとして、工業の動力として利用された。風は常に、また一定の方向で吹くわけではないから、風量や風向きに合わせて調節する技術が発達し、それが帆船の技術に応用され、更に発展していったのである。オランダを政治的に支配していたのは、神聖ローマ帝国であり、独立戦争開始時にはスペインであったが、そうした政治権力とは相対的に独立したところで経済発展をしたことが、オランダの社会的特質となってきた。それはオランダが覇権国家であった時期においても変わらず、オランダが政治力や軍事力で他国を圧倒したことはなかった。イギリスの植民地支配と比較するとオランダのインドネシア支配はいかにも稚拙で苦労の連続だったし、イギリスとの数次の戦争に敗れ覇権国家の地位を失ってからは、世界はもちろんヨーロッパの政治に影響を与えることは、第二次大戦後ヨーロッパに平和が訪れるまでなかった。ナポレオンの時代にはフランスの属国になってしまったほどである。また後述する独立戦争も政
治よりも経済優先の感覚が、勝利を遅らせた最大の要因であった。
 しかし、平和時においてオランダ人が発揮する経済的感覚や政治力は傑出したものがあるように感じられる。江戸幕府との貿易でオランダは極めて大きな利益を得た。平和になったヨーロッパが統合にむけて国境の壁を次第に取り払ってきたときに、オランダは常にその主導的な位置にいた。EUを成立させた条約がオランダ南部のマーストリヒトで締結されたことはそれをよく示している。

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