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zoom RSS オランダの社会と文化 日本と比較しながら(41)

<<   作成日時 : 2006/08/10 15:05   >>

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オランダ人を特徴つける「自由・独立精神・寛容」は、オランダがスペインとの長く凄惨な独立戦争を戦い抜いて建国されたことを抜きに考えることはできない。現在のいわゆる先進国に属する国で、独立戦争を戦って建国した国は、スイスとアメリカしかない。しかし、この両国の独立戦争はオランダと比較すればずっとソフトなものだった。アメリカは植民地本国のイギリスから遠く離れており、軍事的に有利だったし、イギリスが市民革命を経た国家であることが、アメリカの主張を受け入れやすくしていた。スイスは南北ヨーロッパを結ぶ要路ではあったが、次第に海運による交通が開け、スイスの支配に執着する理由は弱かった。
 しかし、オランダは当時のヨーロッパで最も産業や商業が発達し、豊かな富はどのような政治権力にも魅力的な存在であり、支配国家であったスペインの財政を支える有力な地域だっただけではなく、カトリックの元締めであるスペインにとって、宗教的寛容を主張し、新教に傾くオランダは決して独立を許すべき存在ではなく、歯向かうものは「異端」として徹底的に殺戮する対象だった。従ってオランダの独立戦争は凄惨を極めて80年戦争と言われる長い闘いになった。この自由と独立を求める不屈の闘士は疾風怒濤時代の人々を捉えた。ゲーテは「エグモント」を書き、ベートーヴェンがそれに音楽をつけた。シラーは「ドン・カルロス」を書き、イタリアの統一を願って作曲を続けたベルディがオペラにした。シラーは戯曲では飽き足らず「オランダ独立史」という歴史書まで書き、オランダ独立に大きな関心を寄せたのである。
 しかしオランダ独立戦争は全く異質なところでも大きな関心をもって研究された。年表を見ればわかる通り、インドネシアの占領や対日貿易の開始などは独立戦争を闘っているさなかの出来事であり、独立戦争を闘いながらオランダは覇権国家として発展したのである。ところが、正式に独立を承認された4年後に長いイギリスやフランスとの戦争が始まり、18世紀には既に覇権国家の面影は消えてヨーロッパの小国になってしまう。従って、独立戦争の中に覇権国家としての飛躍とその敗退の両方の要因が胚胎していたと考えざるをえない。それは何かという問題関心である。過度な経済活動への執着と軍事・政治・地政学等への無関心ということが一般的に言われているが、ここでは深入りすることは避けたい。
 比較的自由な経済活動を営んでいた低地地方に大きな変化が生じたのは、フランドル生まれのカール5世が神聖ローマ帝国の皇帝、かつスペイン王となってスペインの支配下となり、最も苛烈な反宗教改革の実践者だった息子フェリペ2世が後を継いだことによる。フェリペ2世は異端審問裁判を強化させ、新教徒を容赦なく弾圧させた。特にアルバ公という名高い強硬派が大軍をもってオランダを支配するために派遣されて以降、弾圧は苛烈になり、スペイン王に忠実で、市民の信頼厚い大貴族エグモント伯爵すら処刑されてしまう。そして重税が課せられ、下級貴族(乞食党と自他ともに称した)の反乱、海賊たちのスペインへの抵抗、そしてエグモントと袂をわかってドイツに逃れていたウィレムの軍事行動となり、独立戦争が始まった。
 有名なシラーの叙述を紹介しよう。

 十六世紀を世界史の中で最も光輝ある時代の一つに数えさせている政治的事件のうちでも、オランダにおける自由の樹立は最もめざましいもののひとつであろう。栄誉を求めて、また危険な権力欲からなされた自責が人の称賛を呼ぶとすれば、抑圧された人々が最も崇高な権利を求める闘争はいかばかりだろうか、ばらばらだった勢力が大義のために合力し、恐るべき専制の企みに対する圧倒的に不利な戦いにおいて悲壮な決意の力が勝利を収めたのである。(中略)
 ここに登場する民は、ヨーロッパ世界において最も平和を好む国民である。ごく些細な行動にも崇高な性格を与える英雄的精神という点では近隣の民のほうがむしろ優っている。状況の切迫によってこの力に目覚め、英雄的な偉大さを欠いていることこそがこの歴史的事件をとりわけ教訓に富むものにしている。偶然よりも天才が重要であることを示そうそしている著者もいるが、私はここで、必要が天才を生み、偶然が英雄を生む場面を描き出すことになるだろう。http://www.geocities.jp/f_von_schiller/

 もともと自治権を獲得し、比較的自由な経済活動を営んでいた低地諸国はスペインの経済を支える重要な地域であった。強大なスペインの政治力の下で安全な経済活動を営むことは彼らにも好ましいことで、多少の課税などの妥協は可能だった。しかし、宗教改革と反宗教改革の厳しい対立の中で、とりわけ苛烈な弾圧を自己の使命と感じていたフェリペ2世の下、アルバ公の軍隊は抵抗を打ち破ったあと、戦闘の舞台となった地域の市民までほとんど皆殺しにする虐殺を繰り返した。当時の戦闘は、後の国民皆兵制度における国民の軍隊ではなく、外国人の傭兵を中心とする軍隊によるものだったから、ほとんどの市民は戦闘とは無関係だったのである。しかし、アルバ公の徹底的な弾圧と虐殺は市民を反乱軍の方に追いやった。その象徴がライデン市民の抵抗だった。包囲されたライデンは1年間の籠城戦を耐えて1574年スペイン軍を撤退させた。今でもライデン市には籠城した城砦後が史跡として残されており、重要な観光スポットになっている。
 ライデンの解放が事実上スペインの撤退となり、オランダの独立の第一歩となった。独立戦争の指導者であったウィレム1世は翌年ライデン市へのお礼としてライデン大学を設立したのである。
 その後低地諸国の南部、現在のベルギーではスペインが盛り返し、パルマ公指導の下スペインへの服従を示すアラス同盟を結成するが、北部7州は1579年ユトレヒト同盟を結成して、1581年にはついにフェリペ2世の統治権を否認する文書を議会で採択するに至る。この文書はイギリス革命よりも早い市民革命の文書であると評価されているが、他の著書でほとんど文章が紹介されていないので訳文をあげておこう。

 統一ネーデルランド州の全国議会の布告は、議会がスペイン王のネーデルランドに対する支配と統治の廃棄を以下の理由で宣言する。
 王は家臣をあらゆる不正、危害そして暴力から守るために、家臣の長として神によって置かれたものであることは、全ての者にとって明白である。神は、家臣を奴隷として仕えるように命令する王侯のために家臣を作ったわけでは決してない。その反対に王侯こそ家臣のためにあるのだ。家臣がなければ王侯も存在できない。王侯は正しく公平に治め、保護し、そして父が子どもに対するごとく愛を持たねばならない。王侯は家臣の生活を守ることに専心しなければならないのである。
 王侯がそうせず、逆に家臣を守る代りに抑圧し、加重な負担を強い、自由、権利そして古い慣習法を強奪し、奴隷に対するごとく支配するならば、誰も王侯とは見なさず暴君と見なされるだろう。家臣はもはや王侯とは認めず、他の支配者を自らを保護するために選ぶ権利を有する。誤解されてはならない。
 家臣が支配を受けいれる際に、権利と慣習法に一致して行うという誓に従って常に統治が行われていたネーデルランドで誓が破られるという事態が起こった。従って我々は、極めて切迫した状況に強いられて、熟慮と普遍的な声に従い、スペイン王はこの国に地域に対する支配、裁判および世襲の権利が失われたことを宣言することを、ここに公示するものである。http://users.skynet.be/historia/plakkaat.html

これは単に州の自治を守るための文書であって市民革命の文書ではないという解釈もあり、歴史家の意見は多様だが、少なくとも市民革命の核心である「抵抗権」の表明であり、王権からの脱却を果たす宣言である点で、やはりイギリスよりもずっと早い市民革命の宣言であると私は思う。
 この後偉大な独立戦争の指導者であったウィレム1世は暗殺され、更に長い戦闘が続くのであるが、イギリスとの協力関係を背景としてオランダは共和国として世界に展開していくのである。

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