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zoom RSS オランダの社会と文化 日本と比較しながら(42)

<<   作成日時 : 2006/08/11 22:55   >>

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オランダが自由を求めての独立戦争を闘った背景には当然自由を尊重する思想があった。近代思想の幕開けとなる人々、そしてそれを反映した芸術家たちが活躍していた。ここではこれらの思想を詳しく説明することはできないし必要もないだろう。現在のオランダを理解する上で有効なこれらの思想に関するエピソードを紹介するにとどめる。
 この時期オランダで時代を切り開く思想家が生まれただけではなく、外国の思想家がオランダで活動することが有益であると考えてやってきた人も少なくない。最も有名なのはデカルトであり、フランス人であるデカルトは哲学・数学者としての仕事をほとんどオランダで行っているのである。なぜ、デカルトはオランダに来て仕事をしたのだろうか。デカルト自身に語ってもらおう。

 これほど全き自由を味わいうる国、これほど安らかに眠りうる国・・・・毒殺や裏切りや抽象はごとよりも稀で、われらの祖先の無邪気のなごりをこれほど多くとどめている国はほかにあろうか。(中央公論社『デカルト』の野田又夫の解説より)

 またイギリス名誉革命の思想家ジョン・ロックも名誉革命の前はオランダで思索活動をしていたことはあまり知られていない。
 都市が自治権を獲得して経済活動を行っていた頃は、様々な新しい宗教が流れ込んできたが、それが政治的問題となることはなかった。他の政治体制では許されないような思想も低地諸国では危険視されることはなかったのである。そうした中から生まれた代表的な思想家がエラスムスであろう。
私が1992年にオランダに滞在しているときに、ライデン大学の外国人向けのサービスをしている部局のオランダ語講座を履修したことがある。そこには若い非オランダ人がたくさん学びにきていたが、約3分の1くらいは、エラスムス計画によって短期の留学をしている人たちだった。エラスムス計画とは1987年から始まったEC内での人的資源活用のための交流事業で、95年までの第一期で毎年3000人の学生、1000人の教員の交流が行われた。現在ではより広範な交流事業としてのソクラテス計画の一環となっているが、当初の計画がオランダ出の「国際人」たる知的巨人のエラスムスの名前を冠していたことは興味深い。
15世紀の半ばにロッテルダムで生まれた(生年は諸説あり正確にはわからないようだ。)エラスムスはフランス、イギリス、イタリア等で活躍し、ユートピアを書いたトマス・モアと親しく交遊し、ルターと論争をしたこと彼の思想の核心は、闘争・分裂ではなく、思想間の共存をめざす平和であった。日本でも翻訳されている「痴愚神礼賛」はカトリック批判の書物とされるが、むしろ彼は過激化するルターの宗教改革を批判する立場であり、宗教的な分裂が血で血を洗う闘争になることを戒めた。
寛容という価値を重んじるオランダ人の価値観はエラスムスから続いていたといえるのだろう。エラスムスの主著である「痴愚神礼讃」を高校のときに読んだが、単に西欧の古典的知識が欠けていただけではなく、その多面的な論理の矛先についていけず面白いとは思ったが理解できなかった。年をとってから読み直して印象が変わった。

 人生に対する完全な経験に加えるに、それに負けない精神力や透徹した判断力を持っているような老人を、だれががまんして友人にできましょうか?また仲良しになれましょう?むしろ老人は、どうか、わけのわからぬたわごとを言っていただきたいもの。そのかわりこういうたわごとが、賢人をさいなむ苦しみから老人を解放してくれ、ときにはなかなかりっぱな酒飲み友達にもなります。(世界の名著『エラスムス・トマスモア』P70)

 こうした思想は宗教対立のような極端な対立状況の中では、双方から挟撃され理解されにくかった。しかし今日ではエラスムスこそ最もオランダ的な思想家といって間違いないだろう。
 理解されにくかったという意味では、独立戦争の指導者であったウィレム1世も同様であった。偉大な政治指導者として受けいれられていたが、彼がめざした宗派間の寛容はむしろ否定的に受け取られた。フェリペ2世やアルバ公は徹底した新教に対する弾圧で望み、容赦なく火あぶりの刑に処していったから、その反動として新教徒の旧教徒に対する憎悪の感情も激しいものになった。独立戦争の中で次第に新旧キリスト教徒の協力が形成されるが、それはスペイン側が抵抗した都市に対して市民皆殺しという残虐な仕打ちを行い、逆に異なる宗派の信者というよりは共通の市民という感覚が出てきたことに加えて、ウィレム1世に見られるような相互の寛容を重視する考え方が政治をリードしたからであろう。また、現ベルギーがスペインと協力する姿勢を強める中で、フランドルの商工業者が北部のユトレヒト同盟の地域に移住しただけではなく、様々な地域で迫害される人々を受けいれることでこうした傾向は更に発展した。
 そうした傾向が展開すれば「世俗的思想」に行き着くことは自明だろう。スピノザがオランダで生まれ、思想家として生きたことは自然なことに思われる。
 ポルトガルからの亡命ユダヤ人の子どもとして生まれ、経済的に豊かな家庭に育ったが、思索に専念するために財産を放棄して隠遁生活をおくろうとした。裕福なユダヤ人家庭に生まれて財産を放棄したという点で、ヴィトゲンシュタインによく似ているが、その「哲学論考」とスピノザの「エティカ」はスタイルまでよく似ている。しかも、英語で出版するときの題名Tractatus Logico - Philosophicus はスピノザの「神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus 」になぞられたものだったという。
 ふたりの共通性は、一切の既成の概念を一端放逐し、論理的に絶対に否定できない命題の積み重ねとして真理を究明しようとした点だろう。スピノザは「神に酔える哲学者」と呼ばれていたが、明確にユダヤ教あるいはキリスト教的な一神教を否定しており、ユダヤ教からは破門され、キリスト教界からも圧迫された。当時オランダは出版界でもヨーロッパのリーダー的存在で、新しい思想の多くはオランダで出版されたと言われている。活字印刷の発明はグーテンベルクよりもオランダの方が早かったというが、発明の時期よりは印刷出版活動の活発さこそが重要だろう。デカルトがオランダで活動した理由のひとつもそこにあったに違いない。しかしヨーロッパの中で格段に自由な出版活動が許容されていたオランダでも、スピノザの本は出版が困難でエティカは死後だされた。
 21世紀の日本に住む私にとってエティカの神に関わる章は、そもそも何故あのような分析が必要であるのか、リアルに認識することが難しいが、むしろ後半に置かれた人間の感情の分析は今日流行りの臨床心理学にも通じるものがあるように感じる。
フーゴー・グロチウスもまたいかにもオランダ的な思想家だった。しかし、興味深いことにグロチウスはオランダで教会内部の神学論争に巻き込まれる形で終身刑を受けて投獄され、脱獄後外国で活動して主要な著作を出版したということである。もっとも、教会内部の問題で、オランダ共和国という国家が関与したものではなかったし、グロチウスの思想そのものはオランダ共和国よりのものであったから、彼の思想がオランダの立場と矛盾しないことは明らかであるが。
 グロチウスは1583年に生まれ、1645年に死んでいるので、まさしくオランダの黄金の時代に生き、オランダの海外進出という国際情勢の中で思索を行った。よく知られているが、グロチウスはそれまでまったく考えられることのなかった「国と国を規制する法」そして「戦争を規制する法」を法の本質から構想した。このことは本人が自負していたことだった。「戦争と平和の法」の序言で次のように書いている。
 
 本問題を全体的に扱ったものは誰もいないし、部分的に取り扱ったものとても、その多くのものを他人の研究に委ねるといふやうな遣り方であったから、この著作は一層価値が大きいやうに思はれる。
 
 もちろん今でも法は主要には国家が制定し、国内を規制するものであり、かなり整備されてきたとはいえ、国際法は国内法よりも格段に規制力が弱い。規制力のある条約といえども脱退してしまえば規制力は及ばないのが普通である。また、アメリカのイラク戦争を見れば戦争法の規制力は強くはない。ましてグロチウスが「戦争と平和の法」を書いた国際社会では、国家間を法が規制するなどということは念頭になかったし、戦争は強いものが何をしても仕方ないものだった。オランダの独立戦争で住民が皆殺しにあっても、スペイン王が現地司令官を罰するなどということは思いも寄らないことだったろう。しかも、平和と犯罪と戦争の境界も不明確だった。オランダのニシン漁は常に海賊からの防衛が必要でオランダの造船技術は対海賊のために駆使されたし、逆にオランダ独立戦争の中でスペイン軍を苦しめたのはオランダ側の海賊たちだった。
 しかしグロチウスはずっと長い視野で法による秩序を構想する。
 
 国家において、国民法に従ふ国民は、たとひ国民法を尊重することによって、かれにとって有利なあるものを捨てなければならないことがあっても、彼は愚かではない。同様に人民が諸人民に共通の法を無視することいふところまで、自己に有利なるものを重要視しなくとも愚かではない。二つの場合の理由は同じである。何故ならば、当面の利益のため国民法を侵犯する国民は、彼自身及び彼の子孫の恒久的な利益を確保するところのものを破壊する如く、もろもろの自然法及びもろもろの万民法を侵犯する人民は、将来における自己の平和の堡塁をも除去するからである。
 
 このようにグロチウスは時代を超えて人民の利益になることを考察した。しかし他方彼もまた16世紀から17世紀に生きた人間という制約を免れなかったことは否定できない。こんなことも書いていたのだから。
 
 父は、国民法が妨げない限り、自然によって、その子を担保に入れ、もし必要があって、他の方法では扶養し得ない場合には、これを売ることすら出来るのである。345

このような伝統よりは未来に向かって社会を押し進める思想は、現在のオランダが既成の考えにとらわれない政策を実施している姿と重なっているように思われる。16世紀17世紀は周囲のすべての国が強大な王によって統治されていたのであり、市民の合議によって治められていたのはオランダだけだったことを忘れるべきではない。

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