教育と社会を考える

アクセスカウンタ

zoom RSS オランダの社会と文化 日本と比較しながら(43)

<<   作成日時 : 2006/08/12 15:17   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

没落と再生

 1648年のミュンスター条約で正式にヨーロッパ諸国からオランダ国家が承認されたが、1651年には対スペイン戦争で協力関係にあったイギリスとの戦争に入る。結果的には長い戦争の間にフランス革命が起こり、ナポレオン軍によってオランダ共和国は滅ぼされ国家として迷走ともいうべき状況となってしまう。
 1795 バタヴィア共和国、
 1806 ホラント王国(ナポレオンの弟ルイが支配)
 1810 ホラント王国をフランスに併合
 1813 フランスから独立、臨時政府
 1814 ネーデルランド王国(以下オラニエ家がオランダ王に)、続いて現在のベルギーを併合
 1830 フランス3月革命の影響でベルギーで独立宣言
 1848 ヨーロッパの2月革命の影響で憲法改正
 最初のイギリスとの戦争が始まってすぐホラント州はヨハン・デ・ウィットを州法律顧問に任命した。まだ28歳だった。軍人ではなく法律家がイギリスやフランスとの戦争を指導したのである。オランダの北米、南アフリカなどの海外植民地もイギリスに奪われ、インドネシアに押し込められていく。インドネシアの植民地経営も現地民の激しい抵抗に会い、城の建設や軍事費など多額の費用がかかっていく。インドネシアでは反乱した人々に対して加えた過酷な弾圧は現在の人権国家オランダに相応しい歴史とは言い難いものだ。第二次世界大戦で一時的に撤退したオランダは、戦後再びインドネシア支配の夢をもって復帰したが、既に民族独立の意識にめざめたインドネシア人を統治することはできなかった。
 他方、軍事的軋轢など全くなく平和な交易を続けた日本からは、莫大な利益をあげたのである。世界の状況にうとく、国内で自足的な経済を営んでいた日本は、オランダがもってくる商品の多くは奢侈品で一部の者にしか利益をもたらさなかった一方、有力な輸出品をもたなかった日本は金銀で支払い、貴重な金銀を大量に流出させてしまったことになる。もっとも、日本にとっては列強が日本に迫ってきたときに、独立国家として近代化する下地ができていたが、それを可能にしたのはオランダ人によってもたらされた海外の知識や技術だったのだから、金銀には換えられない利益があったというべきかも知れない。
 ウィットは全国議会の支持を受けながらオランダを指導したが、経済政策が中心で戦争が継続していたにもかかわらず軍事費は削減されていった。最もフランス革命が起きるまでは、オランダ国内が戦場となったわけではなく、当時の戦争はほとんどが外国人の傭兵によって闘われたから、市民を巻き込む総力戦とは異なっていた。結局気がついていたら敗戦続きで経済的基盤すらかなり脆弱になり、貧しくなっていたということだろう。長い混乱期を経て、オランダが安定を取り戻すのはベルギーの分離独立をオランダとしても承認し(1839)、自由主義的な憲法改正が行われ、オランダ議会と国王が「立憲君主政」という制度を受けいれた時点だったろう。またこの時期はプロシャに関わる戦争があったとは言え、ヨーロッパに長い平和が訪れた時期でもあった。
1848年以後自由主義的な改革が進んでいくがその基本は教育・結社・集会・表現・出版・宗教の自由が規程された憲法改正だった。具体的に教育について見ておこう。
 1814年の憲法では、「教育は政府の事項である」「政府は教育の状況を毎年議会に報告しなければならない」という2項だけをもっていたが、48年の改正で教育は自由であること、政府が教育を監督すること、公的に教育について宗教的信条を考慮すること、自治体が十分な公的教育を保障するための学校を設立することを規程した。
 日本でも「自由」という言葉は多義的であるし、様々な勢力が時代によって異なる対応をする。1970年代まで「教育の自由」を主張していた人々は、今は「新自由主義」に反対し、「自由」をあまり主張しなくなっている。オランダでも19世紀の自由と現在の自由とではかなりそのニュアンスが異なる。
 19世紀後半のオランダの政治を主導したのは自由主義者たちだった。自由主義政策の中心は世俗化であって、教育では1806年に公立学校制度ができたときから公立学校中心の義務教育体制が作られた。国家が管理する公立学校で国民は同じことを学ぶことが指向されたのである。私立学校は19世紀前半はほとんど認められずまた認められても厳しい管理を受けた。48年の改正で「教育は自由である」という規程ができて私立学校、つまり宗教団体が設立する学校への容認の幅が拡大されたが、もちろん公的な補助はなかった。
 宗教団体は改革派とカトリック、改革派内部の様々な対立があったが、次第に学校を公立学校に一元化していく自由主義政策に対抗して協力するようになった。1888年の宗教勢力の協力内閣が成立して、翌年教育法を改正し、宗教団体の設立学校にも補助金を出すことを決め、更に労働立法も行った。今後更に宗教界は公費補助を引き上げる運動を行う。それをオランダでは「学校闘争」と呼んでいる。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
オランダの社会と文化 日本と比較しながら(43) 教育と社会を考える/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる