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zoom RSS オランダの社会と文化 日本と比較しながら(44)

<<   作成日時 : 2006/08/13 22:50   >>

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    共存システムへの展開

 「学校闘争」の帰結は宗教勢力の勝利に終わった。1917年の憲法改正で、教育の自由が更に詳細に規程され、私立学校の教育方針の尊重、教材・教員採用の自由、そして私立と公立学校の財政的平等が規程されたのである。この憲法改正を基礎に1920年に学校教育法が改正され、今日にまで至るオランダの学校制度の基本原理が確定した。
 この教育改革は決して教育界の問題にとどまらず、オランダ社会全体に甚大な影響を与えた。これまで公立学校中心だった体制から、私立学校が財政的に保障されたために私立学校を選択する親が増大し、しかも私立学校および公立学校は社会的価値的立場を代表していたので、学校選択を軸にオランダ社会全体が社会的価値的立場を軸に再編されることになったのである。このグループ化は新聞雑誌放送などのメディア、文化団体、青少年運動、病院、労働組合などにも及び、カトリック、改革派、自由主義、社会民主主義の4つのグループがこれらの分野をそれぞれ包括的に組織する体制ができた。そうして、人々はそれぞれのグループの中で多くの生活時間を過ごし、他のグループとはあまり交わらない棲み分け社会、柱社会あるいは多極型社会と言われるオランダ独特の社会システムである。
 このグループは特に強大で突出したものがなかったので、オランダの政治はグループリーダーの間の話し合いで進められ、むしろ安定した社会となったと評価されている。
 さて、1848年の自由主義的な改革以来、オランダは戦争に中立的な立場をとり、第一次大戦でも中立を守り、特に戦後ドイツ皇帝のウィルヘルム2世がオランダに亡命し、連合国がその引き渡しを求めたが拒否して中立を貫いた。しかし、第二次大戦ではヒトラーのオランダ侵略によって、ウィルヘルミナ女王や主な閣僚によるロンドン亡命政府が反ヒトラーの立場から反ファシズムの立場にたった。「アンネの日記」はこの占領下で書かれた歴史の証言である。
 1940年に14万いたユダヤ人のうち10万6千人が強制収容所に送られたが、約1万人は隠れて生き延びたと言われている。不幸にも見つかって強制収容所送りになったアンネ一家も献身的に世話をした人々がいたが、最後まで匿った人々がいたわけだ。もっとも、ナチの提供した報奨金に釣られて密告をした人々がいたことも事実であるが。
 戦後のオランダは更に大きな転換をしたと考えられる。
 インドネシア植民地を完全に失い、国内を基盤として経済体制へ移行せざるをえなくなった。インドネシア植民地は赤字体質が深刻になっていたから、むしろオランダにとっては単に人権的立場だけではなく経済的にも好ましい結果をもたらしたように思う。
 ヨーロッパの統合にむけてオランダは常に積極的な役割を果たすことになった。ベネルクス三国間の関税の撤廃、石炭共同体からEECの結成、更にEUへの発展などは既に述べたところだ。第二次石油ショックなど経済的に危機に陥ったこともあるが、天然ガスの発見やワークシェアリングなどの画期的なシステムなどによって乗り切ってきた。
 そして1960年代の世界的な政治の激動はオランダにも大きな影響を与え、D66という新しい政党による問題提起も影響力をもって、柱社会の弱体化、これまでと異なる権利の承認(代表的には安楽死)など、伝統的な思考から自由な新しい制度を導入してきたのである。
 オランダの歴史をごく簡単に整理してきたが、多少補充的に歴史の中で形成されたオランダ社会の特質を私の体験で感じたことをあげておこう。
 まずオランダは非常にコストパフォーマンスの高い社会である。ホラント州法律顧問であり、スピノザと深く交友のあったデ・ウィットは暴漢に暗殺された。それ以後2002年の総選挙の直前にフォルタインが暗殺されるまで、オランダでは政治家に対する政治的な理由による暗殺がなかったとされる。フォルイタインの暗殺はオランダでは起こり得ないと思っていたことが起き、オランダ人に甚大なショックを与えた。この暗殺によって多少事情が変わったが、それまでオランダの政治家にはSPがつかなかった。そして、国会議員の仕事場がある建物の中庭に市民が自由に入ることができた。行き来する政治家に市民が気軽に語りかけることができたのである。それは今でも多少不自由になっているが禁止されたわけではないと思われる。フォルタイン暗殺後首相や重要閣僚、911テロの影響で危害を加えられる危険のある政治家にはSPがつくようになったがそれでも人数はごく少数である。日本の首相についている多数のSPやいつもマイクを向けている多数の記者たちの姿はない。これは王室も同じで、さすがに女王や皇太子にはSPがつくが、人数は極めて少数であり、実際に王室メンバーでも街にでかけて電車に乗ったり、デパートで買い物をしたりするというのは有名である。このように必要最低限の費用はかけるが、仰々しいやり方は極力抑えるのがオランダ流で、税金の使い方にシビアであることもこの背景にある。
 オランダの国会選挙は比例代表制である。したがって小党が分立することになり、政府は常に2〜3の政党の連立政権となる。フォルタインが暗殺された2002年の6月の総選挙でフォルタイン党がかなりの勝利をおさめて内閣入りして政治の様相が変わったころ、私はオランダに行った。すべてが新人の議員で当然大臣など初めての人たちが大臣になったし、政党自体が新しかったために内閣は大混乱していた。テレビのニュースを見ていると、フォルタイン党の大臣が記者会見をしたあと、つかつかと無関係の人が近づいてきて皿いっぱいの料理を顔にくっつけた映像が繰り返し流されていた。さすがにオランダ人たちも「何故こんなことになってしまったのだろう、オランダの政治はどうなるのか」と嘆いていたが、案の定キリスト教同盟の首相バルケネンデは10月に議会を解散し、フォルタイン党を閣外に追い出すために再度総選挙をすることを宣言した。そして、1月に総選挙が再度行われたのである。これは私としては非常に興味深い経験であった。選挙の動向をつぶさに見ることができたからだ。
 日本で選挙になると宣伝カーが走り回り、駅では演説があるがどちらかというと論理的というよりは名前の売り込み中心で、あとは電話やかなり制限された法定ビラの配布などだろう。中心は名前を叫びながら走り回る宣伝カーだ。もっとも支持者たちとの間では小さな集会がたくさん開かれるが、一般の人には無縁だ。
 しかし、オランダでは駅頭での演説も宣伝カーによる名前の連呼も全くない。そもそも比例代表制だから名前を連呼する意味はない。政党の名前を連呼してもしかたないだろう。日本の支持者による集会はオランダでも政党ごとに開かれるようだ。もちろん外国人の私はでなかったが、ミニコミのような形で日時や場所が知らされていた。一般の人たちに対する選挙活動はほとんどがテレビで行われているような気がする。オランダでは党首という言い方をせず比例代表の立候補者名簿筆頭者という言い方をする。事実上党首だ。その党首が出てきてテレビで論戦を行う。主要な政党すべての党首が出てくる場合もあるし、また、2〜3の党首の場合もある。また番組がたくさんあるので党首以外の候補者が議論する場合もある。選挙戦が始まってからは、ほとんど毎日、夜の時間帯はどこかでこの討論の場がある。ごく小さな政党はこの討論会に呼ばれないので、かなり苦戦になってしまう。テレビ討論ではテーマはその時ごとに決められているが、長い番組では様々なテーマが扱われる。その討論は非常に激しいもので、相手をやり込めるのが目的という感じだ。日本の討論のようにとにかく自分の意見を述べてお終いで、相手の論の欠陥を指摘して屈伏させるというような感じとほど遠いものとは違って、真剣勝負の感じだ。しかもかなりの早口で話すので、党首たる者そうとう弁舌がたたなければやっていけない。フォルタインはこのテレビの党首討論で相手を打ち負かし人気を得たのだそうだ。
 このことを日本の友人に話したところ、それは一般市民の感覚の相違であって、政治家の資質の相違ではないのではという意見の人もいた。つまり、日本では相手を論理鋭くやり込めるような人はあまり人気が出ず、むしろ茫洋として煙に巻くような人の方が好まれるからそのように振る舞っているのではないかというのだ。
 更に結果に驚くことになった。僅差でキリスト教同盟が勝利し、昨年まで政権を担当していた労働党は躍進して2位になった。そして、3位がそれまで閣内にいた自由党で、フォルタイン党は首相の思惑通り議席数を減らし、とても連立政権に参加するような数ではなくなった。そこで、1位と2位が連立すれば絶対安定多数だから、好ましいと思われたのだが、2003年の2〜3月はイラク戦争が起きるのか切迫した時期であり、オランダでもかなり国論が分かれる状況だった。キリスト教同盟のバルケネンデ首相はアメリカとの関係上反対もしにくいという感じであったが、労働党はイラク戦争に強く反対して妥協しない姿勢を示していた。こうして様々な調停や話し合いが進められ、連立の組み合わせもいろいろと提案され、結局内閣が発足したのが5月に入ってからだった。それまでは日常的な業務は旧内閣で行われ、主立った政治家たちの中心的仕事は内閣を成立させる組み合わせを探ることだったのだ。なんともまあ、呑気なことだろう。私はその時期オランダを離れてデンマークで学んでいたので詳細はわからないが、やっと内閣が成立したという記事を読んだときには苦笑せざるをえなかった。結局のところオランダにとって重要なことは経済活動であって、政治はわき役なのだろう。
 因みに比例代表制といっても、政党名だけではなく、更にぜひ議員になってほしい候補者がいればその名前を書くことができ、名簿順位の低い人にたくさんの投票があった場合には、政党は順位を入れ換えることが多いそうで、比例代表制は個人を選ぶことができないという批判があるが事実ではないことがわかる。
 また、国政レベルではないが、地方議会の選挙では5年以上定住している外国人にも投票権がある。これもオランダの外国人へのオープンの姿勢の現れだろう。
 もうひとつは中央管理と地方管理の問題である。オランダは小さい国なので民主主義国家らしく地方分権が進んでいるが、中央管理されている分野もたくさんある。それが必ずしもうまくいっているわけでもない例である。
 留学の際当然たくさんの荷物を小包で郵送した。ダンボール10箱はあったろう。それがたしか木曜日不在のときに届いた。もちろん不在だったから連絡せよという紙切れが挟み込まれていたから電話したのだが、驚いたことにそこに書かれていた電話番号は使われていないというアナウンスだ。どうも1年くらい前にこうした不在時配達の処理センターが変わったらしく番号が変わっていたわけだ。日本だったら以前の番号を書いた文書を配布するだろうか。とにかく電話すると新しい番号がアナウンスされている。着いて間もなくでオランダ語の複雑な数字の読み方に慣れていなかったためにけっこう苦労したのだが、とりあえず無事通じて、月曜日に配達してもらうことに合意した。日本なら当然荷物を保管している郵便局と話すところだが、実はそこは全国の不在時配達の処理をするセンターで、電話の途中で郵便局とのやりとりなどをしているためにしばしば待たされた。とりあえず月曜日だと思っていたところ、どういう親切心の現れなのか、土曜日の不在時にまたまた配達されてしまったのだ。帰宅したときにはセンターは土曜日のため仕事をしていないから、とりあえず月曜日の約束だからと月曜日ずっと待っていたが来ない。そこでまた電話をするのだが、要するに全国唯一のセンターだから担当者が何人もいて、また新たに説明しなければならない。そして再びの約束違反。荷物が研究に必要なものだから、とにかく郵便局にいって事情を話し、直接荷物を受け取ることにした。幸い郵便局は親切で、しかも日本から大量の荷物が届いていることなど滅多にないのだから、小包はちゃんと分かりやすいところに積んであって、キャリングカーも貸してくれて受け取りはスムーズにいった。だが、自分で運ぶという約束でその場で受け取ったので、10箱のダンボールを3回にわけて片道30分くらいの道のりを一人で運ぶことになってしまった。もちろん郵便局でその時に何曜日に配達してくれといって、うまく調整がつけばそうしてくれる感じの親切さは感じたが、最初の配達から既に1週間も過ぎていたので待つことに苦手な日本人らしく自分で運ぶことにしたのだった。
 良い運動だったことは間違いないが。

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