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zoom RSS 嶺井編著『選ばれる学校・選ばれない学校』の批判

<<   作成日時 : 2007/01/28 23:18   >>

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公立義務教育学校の選択制度が都市部で次第に拡大してきたことに応じて、それに関する本も増えてきた。専修大学の嶺井氏の『選ばれる学校・選ばれない学校 公立小・中学校の学校選択制は今』(八月書館)は調査を伴った本であるが、批判として見過ごすことのできない弱点があるし、また、私の文章に対する批判的コメントがあるので、それに回答するという意味もあるので、ここにコメントする。
「はじめに」で、嶺井氏は、学校選択制が始まったころのマスコミの論調は「公立学校も特色がもてるようになる、学校間競争が起きるから公立学校の向上につながる」という賛成論と、「教育の商品を生み出す、学校間格差を拡大する」という批判論があったという。もちろん、こういう意見があったことは事実である。しかし、それだけだったのだろうか。「マスコミ」というのが、どういう範囲を示すのかよくわからないが、少なくとも賛成論者の黒崎勲氏などはこうした見解とは異なるし、また、私は、活字レベルで活発な見解表明をしていたわけではないが、ネット上にはかなりの書き、唯一国家レベルで完全な学校選択制をとっているオランダの紹介は書籍で行ってきた。もちろん、この賛否とは異なるレベルのものである。
嶺井氏がこのような論点整理をすることじたい、学校選択制度への理解を妨げるものではないだろうか。
次に、嶺井氏は「選ばれる学校」と「選ばれない学校」が固定化しつつあるということを調査によって明らかにしたいようであるが、「結果」をこのようなレベルでのみ考えることこそが、嶺井氏が反対する見解と同一平面に重なってしまうことになるのではないだろうか。
第1章で中川氏は、全国の学校選択制をめぐる状況を整理したあと、「本当の目的は?」と問うている。そして、公式的には、特色ある学校づくり、児童生徒の個性の伸長、開かれた学校づくり、保護者の意識改革、教職員の意識改革が述べられているが、本当の狙いは別にあり、それは、公立学校の「体質改善」、「教育改革」のアピール、学校統廃合の促進、競争による「学力」向上の4つだとしている。
私にはここに整理された「公式」と「本当」の違いがあまり理解できない。学校統廃合については、別の検討が必要であるが、他はどれもそうなのだろうと思う一方、重要な事実が抜けていると言える。
学校選択制度が「日本」で政府や自治体によって導入される契機はふたつであり、ひとつは、いわゆる「新自由主義」的発想からである。競争が改善をもたらすという「信念」から、学校も競争すべきであり、それは学校選択制度が必要だという考えである。このことを嶺井氏のような学校選択反対の人たちは主張してきた。しかし、文部省が、通学区指定にかかわらず、転校を認めたのは「いじめ」が原因でその学校にいられなくなった、あるいはいると危険だという場合であったことを忘れるべきではない。学校選択もその延長上で理解している人は少なくないのである。
ではこのことは何を意味するのか。実際に、いじめによる自殺事件の中で、自殺した生徒の前に同じグループからいじめられていたが、転校したために自殺にはいたらなかったという事例がたくさんある。それは自殺に至るようないじめがあったのに、適切に対応できなかった教師や学校がたくさんあったということを意味する。命に関わるような重大事態が起きているにもかかわらず、それに適切に対処できないということは、「体質改善」の必要性があることは明らかだろう。
嶺井氏や久富氏のような教育社会学系の学校選択の反対論者は、選択の弊害をいろいろとあげるのに、選択できないことによる弊害にはまったく目をつぶっているという事実がある。
さて足立区について、書かれていることはかなり的外れであるので指摘しておく必要がある。
学校選択制度導入の目的は学力向上である、しかし、もっとも広範囲な選択を可能にした足立区は学力が23区で最低であると指摘する。そして、学校選択で競争状態を生み出せば学力が全体として向上するというような単純な話ではない、と批判する。そして、私の文章を批判的に引用している。
しかし、この著者にはまったくの勘違いがある。
足立区の学校選択制度導入の際に、「学力向上」という目的意識は、存在しなかったのが事実である。もちろん個人的に考えた人はいるかも知れないが、少なくとも「学校選択の自由化懇談会」では学力問題が議論されたことはない。学校選択にすれば学力が向上するというような見解を述べた人は存在しなかった。
もともと足立区は地域にもよるが、事件の多いところで荒れた学校があちこちにあった。そして、経済的に貧困な家庭が多く、学力は低いことは自覚されていた。しかし、そのことを選択制度で解決しようという意見は聞いたことがない。報告書にもそのようなことは書かれていないはずである。
昨年の学校の成績がいいところに補助金を多くするという足立の施策は、学校選択をやっている、いないに関わらず可能な施策である。学校選択を議論していたときには、東京都の学力テストおよびその公表はなかったのだが、選択制度を実施したあとそのような事態になり、足立区が区内最下位ということが明らかになって、教育委員会があわてたというのが事実だろう。そうした補助金の差別化を学校選択制度と不可分の関係、つまり、学校選択制度を実施しているから可能で、実施していなければ不可能だと考えるのは、まったく的外れである。
新自由主義的な学校選択論ではない選択論はどのように考えて、選択を主張するのか。それは、教育権の原則的な考え方そのものなのである。今の社会で、教育に求めるものは人によって異なるというのがまず前提となる。人々は同じ教育的価値を求めているのではない。従って、自分の価値を重視してくれる教育を選択するというのが、「教育を受ける権利」として当然であるというのが、学校選択論の基本なのである。オランダの学校選択論はまさしくそういうものである。もちろん、学力を高くしたいという価値もあるだろうが、すべての人が高い学力を子どもに求めているわけではないのである。こうした学校選択論から見れば、学力が向上するかどうかを、選択制度の成否を見る基準にするなど、的外れ以外の何ものでもない。
そういう観点からみれば、本書が行っているような「選ばれた学校」と「選ばれなかった学校」の詳細な調査などが大切なのではなく、何を望んで選んだのか、その意識の「ていねいな」検証こそが大切なのである。もちろん、浅薄な風評に踊らされた親もいるかも知れない。しかし、子どもの学校を選択するのに真剣になる親が普通であろう。そういう親の真剣な選択を真摯に検討するのが研究者の役割であり、選ばれる・選ばれないが固定してきた、などと揶揄的にいってみても何も出てこない。
これは、学校選択制度がトップダウンで行われたという批判にもあてはまる。もともと、嶺井氏のような立場の選択反対論者は、学校選択の「教育権的な意味」をきちんと考察せず、「自分たちが選ばれる立場になるのは嫌だ」という教師の感情的な反発にのって、あれは新自由主義の競争主義だとして、対案を考えることもせず反対しただけ、という状況だったのだから、ボトムアップなど不可能だったのだし、むしろトップダウンにならざるをかない状況を作ってしまったといわざるをえないのである。
トップダウンが問題なら、もっとよい学校選択制度のあり方を一緒に模索すべきだったのではないか。

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