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zoom RSS 教育の再生か撲殺か(12)

<<   作成日時 : 2007/02/06 17:47   >>

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 またまた文部科学省が体罰容認希望の表明だ。必ずしも「学校教育法」の改訂をしようというわけではないようだが、以下のように報道されている。

「文科省:体罰の考え方通知 「懲戒のための有形力」を許容
 文部科学省は5日、学校教育法で禁じられている体罰に関する考え方をまとめ、都道府県・政令市教育長らに通知した。通知では「体罰に当たるか否かは客観的に判断する」ことを前提に、「一定の限度内で懲戒のための有形力(目に見える物理的な力)の行使が許容される」という裁判例も盛り込んだ。
 同省は「有形力の行使すべてが体罰ではなく、事案ごとに客観的・総合的に判断されるということを表したかった」と説明。拡大解釈される恐れについては「身体に対する侵害や肉体的苦痛を与えるような懲戒は体罰に該当すると明記している」とした。【高山純二】毎日新聞 2007年2月5日毎日新聞 2007年2月5日」
 
 水戸5中事件の東京高裁判決で「有形力の行使」を認めたことがあるが、いくら有形力の行使を認めても、それで体罰の容認とはならないし、また、体罰に頼る教育を容認しているようでは、決して現場の問題を解決できないだろう。体罰に限らず、昔から管理的な教育を行う教師に対しては、面前では大人しくしているが、その教師がいないときにはひどく荒れるというのが、通常起きる現象である。体罰とは麻薬のようなもので、荒れ(痛み)を即効的に解決するには有用だが、長期的に見ればより深刻な荒れをもたらすものなのだ。それに、効果があっても「やっていい」ということにはならない。
 
 もちろん、有形力の行使が必要な場合はいくらでもあるだろう。例えば誰かに暴力を振るっている生徒が、制止をきかず暴力を続けていたら力で押さえつける必要がある。しかし、だれもそんなことを体罰とは言わないし、また、非難することもない。
 文部科学省がどのような通知を出したのか、今はわからないが、東京高裁の判決で「有形力の行使」(=体罰)を容認したのだとしたら、まったくの欺瞞というべきだろう。
 あの判決は、結論は間違っていない。つまり、体罰で生徒を死なせたかも知れない教師を無罪にしたのは、正しいと思う。何故ならば、あくまでも因果関係を証明する証拠がなかったのだから。教師が生徒を殴った様子をみた生徒がいる。しかし、そのことと死亡との因果関係はわからない。結局、解剖をしなかったために、原因がわからない以上、民事ではなく刑事においては無罪にすべきなのだ。(最近の刑事事件でも、推定無罪に反する判決があることを考えれば、不当とも言えるが。)しかし、だからといって、体罰を容認するような文章を挿入したのは、明らかに間違っている。教師が無罪になったのは「疑わしきは被告人の利益」という原則にしたがったまでで、その教師が行った体罰を容認するのは法的に間違いであることはあきらかだ。
 
 学校教育法には体罰禁止規定があるが、罰則規定がない。だからこれは理念的な禁止規定であって、罰せられることはないのだ、などという誤解をする人がいる。しかし、体罰というのは、「暴行」「傷害」なのであって、刑法で裁かれる犯罪なのだから、学校教育法に体罰に対する罰則規定は要らないのである。
 いくら文部科学省や体罰に郷愁を感じる人たちが体罰容認の見解を出そうと、それが法的に認められることはありえない。そして、教育再生会議が本当に教育を再生したいのならば、こうした体罰郷愁的な発想を100%払拭する必要がある。


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