教育と社会を考える

アクセスカウンタ

zoom RSS 人口呼吸器の取り外しは殺人か?

<<   作成日時 : 2008/05/10 22:22   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 3

 富山県の病院で起きた延命中止に関して、警察は書類送検する方針を固めたという報道がある。地検に判断をゆだねるということだという。
 もちろん、疑問があればこうした手続きは必要であると思うが、そもそも延命措置の停止について、殺人を問うということ自体、私には不可解だ。殺人が生きている人を意図的に死なせる行為であることは明確であるが、では、「生きている」ということは、明確なのだろうか。人口呼吸器を付けていれば生きている状態であるが、外せば死んでしまう、という状態の人間は、「生きている」と言えるのだろうか。もし、「生きている」という意味を、「自力で生きている」と定義するならば、人口呼吸器を外す行為は、「殺す」行為とは言えない。「外的補助を借りて生きている」状態も生きていると定義すれば、もちろん、それは「殺す」行為にあたる。
 しかし、それでは、論理的には、外的補助を行なった場合、それを外すことはできないことになる。外せば死ぬのであり、それが殺人であれば、当然人口呼吸器を外す行為は殺人になってしまうからだ。そのような定義が不合理であることは明白だろう。
 私は医療関係者ではないので、微妙な問題があるとしても、それはわからない。しかし、このような問題に対して、素人として、つまり一般人としての判断はありうるし、またそれは意味のあることだろうと思う。
 
 私は、基本的に「生きている」とは、「自力でいきている」状態であると考える。もちろん、それは人口呼吸器等の外的補助で生きた状態を保持することを否定するものではない。そのことによって、改善され、自力で生きられるようになる可能性があれば、治療行為として、当然行なうべきだからだ。しかし、人口呼吸器を外すことによって死んだ場合、それを「殺人」とは考えないということだ。
 そうすると、外すかどうかの判断は合理的には二つの場合だろう。
 第一は医学的に医者が行なう。つまり、このまま継続しても自力で生きることができるようにはならない、なる確率はほとんどないに等しいほど低いという判断の下に、外すという場合。
 第二に、患者本人、あるいは家族の意思によって、自力で生きられる状態になる可能性があるとしても、これ以上の治療を望まないという場合。この場合、私は家族の意思は、突然の本人の意識不明というような状況を除いて、認めるべきではないと思うが、特別な場合には家族の意思によらざるをえないことがあるだろう。
 医学的にも見込みがなく、当人そして家族がそれを受け入れている場合は、問題が起きないと思うし、また、本人が受け入れている以上、医学的には見込みがあると医師が判断している場合も、深刻な問題は起きないと思われる。(これは別の問題が起きうるが。
 )問題は、医学的に見込みがないと医師が判断しているのに、家族、あるいは本人があくまでも治療の可能性を求めている場合だろうか。この場合に、医師が独自の判断に基づいて人口呼吸器を外したら、家族が訴える可能性があるだろう。
 しかし、いつまでもそうした治療を続けるべきなのだろうか。また、医学的に無理であることを、合理的に説明しても、それを受け入れない場合があるのか、それは私にはわからない。ただ、資源の問題から考えれば、それをずっと続けることはできないだろう。
 
 このような問題が起きたとき、いつも私が疑問に思うのは、当事者の医師たちは、問題が起きたときにどう対処するか、準備をしておかなかったのだろうか、という点だ。安楽死はもちろんのこと、人口呼吸器を外す(本人がそれを望んだ場合、尊厳死というのだろうか。)ことによって起きる事態は、当然予想できるわけだ。医師が法律を知らないはずはないのだから、自分が殺人罪に問われる可能性もあると考えるはずである。それならば、当然、それに対する準備をして、自分の行為の正当性を社会に認めてもらえるような配慮をしていれば、起訴されたりしない可能性が高いし、また、起訴されても無罪となる可能性が高い。
 しかし、報道で見る限り、そうした準備をした形跡は、ほとんどの場合感じられないのである。本人や家族の文書による意思表明をとっておくとか、そういうことはできるはずだが、そんなことは失礼だとか、あるいは「忍びない」とか、そういうことが語られたという報道はたまに見るが、そうした態度はやはり、医師として、治療行為を萎縮せず行なうという点で、大きな目で見るとマイナスなのではないか。
 おそらく、日本の医学教育の中で、そうした「法律的対処」という内容は、含まれていないのだろうか。
 私は臨床心理学科に属しているが、あるとき、カウンセラーの法律問題に関する文献(この分野で日本語の文献は存在しないので英語ということもあったが。)を講読する授業を設定したことがあるが、学生はほとんど興味を示さず、履修は2名しかいなかった。しかも、彼らは、カウンセラー志望ではなかった。もちろん、正規の授業の中で、そうした教育を行なう授業は設定されていない。つまり、そういう授業をやる必要性を、臨床心理学の教師たちは感じていないということだろう。
 やはり、学問が蛸壺的に分化していることが、こうした問題の解決を難しくしているような気がしてならない。
 
 さて、最初の問題になるが、私は、人口呼吸器を外すかどうかは、基本的には、治療上の医師の判断に任される領域であり、そのことによって死が訪れたとしても、それは既に自力で生きることができない状態であったわけだから、「殺人罪」を適用すべきではないと考える。このまま治療を継続すれば、自力で生きられる状態に復帰できる可能性が比較的高いことがわかっていたのに、あえて外して死にいたらしめたということが十分に疑われる場合に限って、その罪を問うべきではなかろうか。
 もちろん、そうした場合でも、本人の明示的な意思表明があれば、治療の中止は認められるべきだろう。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
いつも興味深く読ませて頂いております。

「外的補助を借りてる」状態であっても「生きている」と定義しなければ、第三者の悪意によって外的補助が外された場合でも「殺人」とできなくなると思うのですが、いかがでしょう?
いわた
2008/05/18 23:14
 コメントありがとうございます。
 おっしゃることは、「人口呼吸器」等で生きている場合も「生きている」と規定し、医師が医学的な判断の下に外す行為と、本人の意志で外す場合には、違法性を阻却するという論理の方が妥当であるという意味でしょうか。
 たしかにそう考える方が、第三者の悪意を想定した場合に、適切かとは思います。ただ、やはり、私としては「自力で生きている」ことを「生きている」と考えるのが、私の人間観にはあいます。ただ、おっしゃることはよくわかりますので、いろいろと考えてみたいと思います。
wakei
2008/05/19 22:49
わざわざ返信ありがとうございます。
おっしゃるように、医師と、本人による行為においては違法性を阻却するという論理が妥当と考えます。

ブログ、今後とも楽しみにしています。
いわた
2008/05/20 12:03

コメントする help

ニックネーム
本 文
人口呼吸器の取り外しは殺人か? 教育と社会を考える/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる