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zoom RSS 制度と個人の選択 臓器移植改正法案

<<   作成日時 : 2009/06/19 22:22   >>

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 臓器移植法案のA案が衆議院で可決された。
 よかったと思う。しかし、まだ前途多難なようだ。テレビのニュースを見ていると、脳死による臓器移植に反対する団体の女性が、国会議員はちゃんと考えたのだろうか、などと疑問を呈していたが、実に失礼な話だと思う。自分と意見が異なる人は、十分考えていないと理解しているのだろうか。

 「死」が焦点となる問題がでたとき、個別的対応と制度的対応に関する、日本人の「混同」が著しく表面化すると思っている。A案にせよ、脳死を死と認めない人に対して、脳死状態になったときに、死と判定した上で臓器提供を迫るというわけではない。拒否すればいいだけのことだ。
 一方に多数の移植治療をしないと命を維持できず、移植を待っている人がおり、脳死を死と受け入れて、そうした状態になったら自分の臓器を移植して構わないと考えている人がいる、そうして、その意思を尊重すれば、命の助かる人がいるという場合、その助けたいという意思、生きたいという意思を否定するのは何故か、私には理解できない。
 もちろん、この法案が、脳死状態になったら、本人や家族が拒否しているにもかかわらず、臓器を提供させるという内容ならば、それは私も反対であるし、反対するのが、当然であろう。しかし、そうではない。拒否したい人は拒否でき、提供してもよい人は提供できるようにする、つまり、個人の意思を尊重するということだ。法案に反対する人は、その個人の意思を否定するのだろうか。
 私はいつも臓器提供意思を示すカードを財布にいれて持ち歩いているが、もちろん、これは熟慮を重ねた末の自分の意思である。この意思に対しても、「ちゃんと考えたのか」などというのだろうか。

 おそらく制度として認めることと、個人がその制度の選択の範囲の中で、意思に基づいて行動するということの「区別」を、十分に自覚していないのだと思う。選択できる制度があることは、選択を強制するものではない。

 オランダにおける「安楽死の実行」を内容とするドキュメント番組が日本で放映されたとき、その中で安楽死をした人と同じ病気にかかっている患者やその家族から、強い抗議が寄せられたということがある。「我々に安楽死せよということなのか」と。
 しかし、放映の際、テレビでディスカッションをしているアナウンサーは度々、この放映によって、安楽死を勧めているわけではない、と繰り返し述べていたにもかかわらず。
 安楽死という選択を認める制度と、安楽死を求めることとは全く違うことを区別する理解ができなかったわけだ。こうしたことは、様々な面で現れる。しかし、それでは、好ましくはないが必要である、という制度を作ることはとても難しくなる。

 ちなみに、他のすべての党が党議拘束を外して、個人の判断に任せたのに対して、党議拘束をして棄権した共産党には驚いた。党議拘束して賛成、反対というのならばその理由を示せば、理解できるが、党議拘束で棄権、つまり個々人が「判断するな、自分の意見をもつな」というのは、理解困難だ。もっとも、党としての見解をまとめられず、党議拘束を外すというのも、政党として機能しているのか、と考えざるをえないが。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
いつも興味深く拝読しております。
私はA案に賛成です。
ですがこの法案は、wakeiさんの言うような「つまり、個人の意思を尊重するということだ」ではないのではないでしょうか?
私の理解が間違っていれば指摘頂きたいのですが、A案では本人が生前に拒否の意思表示をしていない場合は家族の意思で移植可能にするというもので、個人の意思の尊重よりも、むしろ移植を必要とする人(社会)の方を重要とした改正なのではないでしょうか?

ちなみに共産党の棄権理由は
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-06-19/2009061902_03_1.html
のようです。
まあ、やや言い訳がましいですが。
いわた
2009/06/20 11:55
いわたさん、コメントありがとうございます。移植を促進するための法案であることは間違いないと思いますし、それが患者を救う方法であり、かつ国際的非難に応える道であるということだと思います。そのことが主目的であることとは別に、本人の意思表示のない場合には、「本人はどちらでもいい」という選択をしたという解釈を採用し、家族の意思にまかせるということなのでしょう。それはそれとして、意思尊重のひとつの方法ではあると思います。デフォルト(本人の明確な意思表明のないとき)を拒否とするか、許諾とするか、国によってことなり、これまでの日本は「拒否」としてきたのだと思いますが、それを条件付き許諾に変更したのだと思います。この点こそ、もっと議論されてしかるべきだったと思います。また、書かせて頂きます。
wakei
2009/06/21 10:33

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