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zoom RSS ブラジル人少女の放火事件に思う

<<   作成日時 : 2010/07/10 16:50   >>

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 7月9日に起きた、兵庫県宝塚市の中学生による放火殺人事件は、ある意味いつかは起きる可能性のある事件だった。もちろん、この種の事件は既に何件か起きており、ここで、「起きる可能性」というのは、多少異なった意味である。
 注目されるのは、犯人家族がブラジル人であったという点である。同級生については何も断りがないので、おそらく日本人なのであろう。だから、日本人であろうと、ブラジル人であろうと、起きる可能性のある事件ともいえるが、やはり、ブラジル人家族、ブラジル人の中学生という点において、考えざるをえない点があるといえる。

 1960年代にヨーロッパも日本も高度成長時代を経験しているが、当時ヨーロッパは人手不足を短期移民労働者(政府間協定に基づく)に頼ったが、日本では、農村に都会へ移動する人口が多数存在したために、移住者、出稼ぎ、集団就職などで労働力を補っていた。その間ヨーロッパでは、短期移民労働者が定住傾向を見せ、様々な社会問題が発生したことで、日本で、農村余剰人口がほぼなくなった時点で、外国人労働者の導入を考えざるをえなくなったときに、「ヨーロッパの失敗を繰り返すな」というような考えが、日本社会に広く浸透していた。だから、外国人労働者の導入は、いまでもきわめて「特別事例」として実施されているように思われる。しかし、そのことが、ヨーロッパでは「失敗」とされる中から、様々な対応策が試みられてきたのだが、そうした教訓からは学ばず、逆に様々な問題を発生させている。先日、研修生として働いていた中国人に、過労死認定がされたというニュースがあったが、研修生という名目の3K労働者の存在、3年で国家試験に合格しなければならない、アジアからの福祉労働者等々。

 日本に限らないだろうが、労働意欲をもった者と、雇用側のミスマッチが至るところに存在する。深刻な看護士不足という状況の一方、働く意思のある看護士資格をもった人たちも大量に存在する現実。リストラされたり、フリーターをしている大量の人材がいる一方、働き手がいないために衰退しつつある様々な産業分野が存在する。

 外国人労働者の導入要求についても、このようなミスマッチを解決しないまま実行することは大きな問題であろう。ミスマッチは、結局のところ、十分な労働条件を保障しないことが主な理由だからである。

 1960年代のヨーロッパの経験による教訓は、移民労働者を入れれば、学校で問題が起きるということであった。移民労働者はやがて家族を呼び寄せ、あるいは当地で子どもが生まれる。子どもは当地の学校に通うことになるが、言葉の問題で学校の学習についていくことがきわめて難しい。移民の子どもが学校で優秀な成績をとり、その後上昇軌道に乗れることは、非常に少ないはずである。もちろん皆無ではないし、その可能性は開かれている。しかし、ドロップアウトする者も少なく、それは社会問題に発展していく。
 そうする中、移民労働者を受け入れているヨーロッパのほとんどの国は、移民の子どもの母語を育てるためのシステムを導入し、母語をしっかり発達させることと合わせて、当地の言語を発達させ、学校の勉強についていける学力をつけさせる取り組みをしてきた。それとても、問題を解決しているわけではないが、最低限必要なことであると認識されている。

 日本政府が日系の人たちに労働ビザを与えるという決定をしたとき、このヨーロッパの経験は既に広く知られていた。したがって、問題が起こったときに対処するのではなく、当初から、問題が起きる前に、その体制をとる必要があったのである。しかし、そのための国の施策は、当初全くとられていなかった。ブラジル人の子どもが入ってきた学校が、あわててポルトガル語のできる人を探したというニュースは、記憶に新しい。
 ブラジル人の日本の学校への入学。馴染めない子どもたちのためにブラジル人学校の設立。しかし、財政的な困難で多くがつぶれるか、縮小。あるいは、行きたくても学費のために行けない子どもたち。
 日本は外国人の子どもの「就学義務」を規定していないために、外国人の子どもは、学校に行かなくても放置される。オランダは外国人の子どもでも、就学義務がある。就学義務があるということは、国家が保障する義務があるということでもある。日本は、ともに放置される法的仕組みである。
 そのような放置が続けば、どこかに歪みがでることは明らかだろう。教訓にすべきヨーロッパの経験があったにもかかわらず、事態はヨーロッパよりも悪いかも知れない。数が少ないから、見えにくいだけだろう。
 
 今回事件を起こした子どもは、日本語がよくわからず、学校では孤立していたという。友人はいたろうが、言葉のために授業が分からないということは、学校生活が負担にならざるをえない。

 また、家庭で虐待を受けていると学校に訴えたことがあるそうだ。テレビで校長の言葉として紹介されたことは、「親を呼んで話し合ったところ、しつけの一環だ、ということだったし、子どもも、その後何も言ってこなかったので、そのままにしていた」ということだった。子どもは何もしてくれないから、失望して言うのを諦めたのではなかろうか。

 虐待を知ったら、学校の教師は、福祉施設への報告義務があるのではなかったか。この校長は、報告義務を怠ったのだろうか。あるいは、「しつけの一環のようだ、子どももその後何も言って来ない」という報告をしたところ、福祉施設の方で問題なしと解釈したのだろうか。
 いずれにせよ、「虐待」への「復讐」として今回の放火殺人が行われたのは、報道で見る限り間違いないのだから、そのときに適切な対応を、校長あるいは福祉施設がとっていれば、あるいは防げたかも知れない。対応が緩くなった要因として、ブラジル人であるということは、全くなかったのだろうか。

 外国から労働者を導入するときには、様々な社会的負担が生じる。それでも尚得ることがあるとしても、その社会的負担について、国家そして利益を得るものが、応分の負担をし、適切な事前措置をとることが、絶対に必要であろう。今回の事件も、介護労働者についても、官庁の縦割りの弊害なのかも知れない。

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