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zoom RSS 桐生のいじめによる自殺と「国際化教育」の負の関連

<<   作成日時 : 2010/11/09 18:56   >>

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 群馬桐生市で起きた小6の児童の自殺が、新しい局面を迎えている。ついに学校と教育委員会がいじめがあったことを認めたようだ。しかし、自殺との因果関係は頑なに否定している。そもそも、父親が再三対策を申し入れていたのに、いじめがあったという認識がなかったということがふざけているわけだが、自殺との因果関係がなかったと考えるのは、常識的に無理だろう。いずれ認めざるをえなくなる。当初否定して、次々と事実を突きつけられるとしぶしぶ認めるという構図は、いまの政治にもよく見られる現象だが、潔く認めた場合に比較して、はるかに印象が悪くなる。結局、この事例は裁判にならざるをえないだろう。裁判になることを恐れて、学校や教育委員会は当初いじめの存在を否定するのだが、そういう否定を繰り返すことそのことが、裁判を起こされる要因になるということを、どうも理解していないようだ。しかも、心証が著しく悪くなるから、賠償額も高くなるだろう。

 さて、今回この問題に触れるのは、そのことではない。メディアは非常に小さくしか扱わない、自殺した児童の母親が外国人であったことが、いじめの原因であったという問題についてである。
 別のブログで指摘していた人がいたが、これは林賢一君事件と相似している。埼玉県でかなり以前に起きた林賢一君の自殺は、彼が在日朝鮮人だったことが原因となったいじめによるものだった。当初そのことを隠し続けた学校や教育委員会は、朝鮮総連の指摘でそれを認めざるをえなくなり、その後民族差別をなくすための教育を誠実に行うようになったが、当初はやはり本人に問題があるかのような対応をしていた。

 文部科学省は、学習指導要領の改定をするたびに、「国際化」を強調してきたが、実際の学習内容でみると、「国際化」にふさわしい内容は、削減されてきたという事実がある。ずいぶんと前のことになるが、私が小学生のときには、日本は国際化などということは、まったく言うこともできないほど、まだ貧しい国家であり、高度成長政策すら始まるまえだった。しかし、そのころの小学校の社会では、アジアやアフリカ、そしてヨーロッパ、アメリカの国名と首都、アジア・アフリカの独立した国家は、どこから独立したのか、そして、それぞれの国の特徴などを、かなりの量学習したものである。しかし、その後、実際に日本が国際社会で大きな役割を果たすにつれて、国際化の課題に提起されてきたが、しかし、その都度、義務教育段階で学ぶ外国のことがらは、削減されてきたのである。現在、独立国家があまりに多くなったという事情はあるが、アジアや欧米にどんな国家があるのか、きちんと学ぶ機会はなく、代表的な国を学ぶ程度である。だから、ドイツやスペインがどこにあるのか知らない大学生はいくらでもいる。まして、デンマークとか、ベネズエラとか、ナイジェリアがどこにあるか、正確に知っている学生は、非常に珍しいといわざるをえないだろう。
 では、文部科学省が「国際化」の名の下に、提起してきた学習内容は何か、それは「日本文化」である。国際化が進むと、外国人に日本のことを説明する必要がある場面が出てくるが、そういうときに、日本のことについて説明できないと困るということだが、確かにそれは正しい。しかし、では日本の伝統文化等について、外国人に説明できるほど、学校で学んでいるかというと、実に心もとない。中学の音楽で、最低ひとつの和楽器に触れることが、新しい学習指導要領で定められている。そこで、音楽教師を養成する高等教育機関では、この点での準備が大変なようだ。そもそも触れる和楽器といっても、可能性はいくつかあるし、また、どの学校にはどの楽器があるか、ばらばらなわけだから、少なくとも教える側が、きちんと教えられる保証は全くないし、また、楽器というものは、少し触れただけで、外国人に説明できるものでもなかろう。また、自分で楽しむほどに上達できるものではない。かといって、和楽器をある程度マスターさせるために、個々人に買わせるわけにもいくまい。学校に琴が授業に支障のない程度にそろっているとしても、それで、琴を楽しめるようになれるとは、ほとんど考えられないのである。
 結局のところ、伝統文化の名で押し進められたものは、剣道と柔道の武道を中心とする体育で、武士道的規範を子どもたちに植えつけようという意図以外には、あまり感じないのである。少なくとも、この間の国際化と日本の伝統文化の教育については、その結びつきがもっとも顕著である。

 こうした「国際化」に対応する教育なるものが、いかにゆがんでいるかは、明らかだろう。国際化に対応した取り組みとしては、最低限、1 外国のことがらをできるだけ知ること、2 日本と海外との関係に関する歴史を正確に知ること、その際、偏狭なナショナリズムからは解放されていること、3 外国人に対する偏見をなくし、平等につきあえる人間観を育てること、外国人差別等についてはきちんとした対応をすること、これらのことが、日本の伝統文化に加えて、あるいはそれに優先して、学習させなければならない。しかし、このようなことを一貫して軽視してきたことの弊害が、今回の事件の背景にあると考えざるをえないのである。もちろん、外国人の子どもが在学する学校の多くは、偏見のない交流ができるように、大きな努力をしている。今、教育実習生の体験を聞く授業をしているが、そのような学校の話もでている。しかし、残念ながら、外国人の母親であることを理由にしたいじめが継続し、かつ、給食指導等直接教師がかかわっている場で、いじめが起きているにもかかわらず、それを適切に指導できなかったということは、たぶん学校全体に「国際化」が何を求めているのかの認識が欠落していたのだろう。

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