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zoom RSS 「山椒魚」「かけ」「賢明なスナムグリ」−井伏鱒二は剽窃したのか

<<   作成日時 : 2011/07/02 15:48   >>

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 学生と教材研究のゼミをしているが、井伏鱒二の「山椒魚」を取り上げることになって、久しぶりに読んでみた。また、いろいろと調べてみたいと思って、インターネットで検索していると、東京都副知事の猪瀬直樹の文章が出てきた。私はあまり文学関連に関心がないので、猪瀬氏の仕事については、全く知らなかったのだが、「山椒魚」に対する非難については、率直に驚き、実際に確かめねばならないと感じた。まず猪瀬氏の文章は
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/study/inosenaoki.html
にあるが、「山椒魚」に関する部分の更に一部を引用しておく。

−−−
「山椒魚」は井伏鱒二の代表作として、現在、教科書に載っている。岩屋に閉じ込められた山椒魚の寓話である。

 早く認められたかった、その焦りが井伏の出発点である。

 いまここに幾つか引用した文章、これが「山椒魚」という作品です、と紹介したら誰も疑わないのではないか。しかしこの文章は十九世紀後半に活躍したロシアの風刺文学の作家サルティコフ=シチェドリンの「賢明なスナムグリ」から引いた(註──スナムグリは鯉を細めにした体長は約20センチの川魚で川底に静止しときどき砂にもぐる)。

 井伏本人は、「山椒魚」はチェーホフの「賭け」からヒントを得た、と幾度も書いたり語ったりしているが、「賭け」とはまったく似ていない。それでもあえてそう弁明するのは一種のはぐらかしではないだろうか。

 ロシア人の日本文学研究家のグリゴーリイ・チハルチシビリにとって、「賭け」でないことは明々白々なのである。彼は『新潮』九三年九月号(「陽気な人のための悲しい本──井伏鱒二の作品における『チェーホフ的なもの』」(沼野充義訳))で、日本人には思いもよらぬ反応を示した。

「私は初めてこれを読んだときの印象を、いまでも覚えている。それは、最初から最後までロシア文学のモチーフによって組み立てられた、まったく『ロシア的』な短編ではないか、という印象だった。しかしその際、あまりにも明白な、おのずと浮かび上がってきた比較の対象は、チェーホフではなく、気がきいた辛辣なおとぎ話の作者としてのサルティコフ=シチェドリンだった。どんなロシア人でも『山椒魚』を読めば、『これはサルティコフの「賢いカマツカ」じゃないか!』と叫ぶことだろう」

 ロシア人には自明でも日本人にはわからない。そこで「賢いカマツカ」の翻訳があるかどうか探すと、『大人のための童話──シチェドリン選集第一巻』(西尾章二訳、未来社、80年刊)が出ていることがわかった(前出の引用文)。こちらでは「賢明なスナムグリ」というタイトルになっているが、カマツカもスナムグリも同じ魚で地方によって名前が異なるだけ、翻訳名は違うが同一の作品である。
−−−

 猪瀬氏は断定しているわけではないが、明らかに、井伏がシチェドリンの「賢明なスナムグリ」の盗作である非難していると解釈される。この猪瀬氏の文章全体が、井伏の「黒い雨」が、重松静馬の『重松日記』の盗作であるということを、事細かにレポートしているものであり、その流れの中での「山椒魚」批判であるから、そう解釈せざるをえないのである。

 そこで、井伏自身が語っている「かけ」にヒントを得た、というチェーホフの「かけ」と、シチェドリンの「賢明なスナムグリ」を読んでみた。そして、その比較をしてみよう。
 まず、この三作品の共通点は、主人公が、ある狭い空間に長く「閉じ込められる」という点である。
 井伏鱒二の「山椒魚」は、はじめは一種の遊び場であったはずの岩屋から、二年間の間に体が大きくなったために、出られなくなってしまい、当初は出るべく様々な試みをするのだが、結局出られない。
 チェーホフの「かけ」では、死刑制度と無期懲役に関する議論をしている内に、若い法律学者が、15年間自分はひとつのところに閉じ込められても平気だと言い出し、ある実業家と200万ルーブルの賭をすることで、自ら小さな部屋に籠もるものである。
 それに対して、シチェドリンの「賢明なスナムグリ」は、危険を避けることが大切であると常々親にも教えられ、自分もそう思っているスナムグリが、穴を掘って、ずっとそこに100年間死ぬまで籠もっているという話である。

 閉じ込められるきっかけが、それぞれ全く違っている。したがって、閉じ込められている途中に起きることも、全く違っている。
 「山椒魚」は、何とか出ようと試みるが、結局出られない。しかし、当初は、心に余裕があり、まわりを観察している。ステレオタイプ的な隊列を作って泳いでいる小さな魚を、自由のない連中だと見下す場面もある。しかし、やがて、出ることのできない、自分の不運を嘆き、神を呪うような台詞をはくようになる。そして、迷い込んできた蛙を、自分の体で出口を塞ぐことで、蛙も出られなくしてしまう。つまり、次第に自分の不幸を他にも及ぼすことで、心のバランスをとろうとするかのような、いじわるな心情が出てくる。そうした抑圧下における人間性の喪失が、大きなテーマとして出されているといえる。
 
 「かけ」では、単に閉じこもった法学者だけではなく、負けたら200万ルーブル払うことになる実業家の変遷も描かれる。法学者は、実際の人間との直接的関係はもつことができないが、必要なものはすべて手に入り、また手紙や新聞を受け取ることはできないが、手紙を出すことはできる。孤独に苦しんだ1年目は、ピアノを弾きまくる。古典の本を読みまくる時期から、歴史や哲学、言語の勉強をしたあと、福音書を読みふける時期から、乱読の時期へ。一方の実業家は、羽振りがよかったために、200万ルーブルを出すことなど、まったく惜しくなかったが、その後事業に失敗して、その支払いは経済的破綻をもたらすことになり、はらはらしながら、待つことになり、かけを後悔しているのである。かけの主人公は、他人との関わりをもたない抽象的な生活を続けるという点で、山椒魚とは全く異なるが、月日が経つにつれて、人格的な変化が生じる点で共通性がある。

 それに対して「賢明なスナムグリ」は、当初の目的を果たすために、穴に潜ったあと、確かに外の要素について、思いを巡らすが、動揺して行動を変更することはなく、そのまま死に至るのである。

 猪瀬氏の指摘については、いくつかのブログが意見を書いているが、いずれも、「賢明なスナムグリ」とは、あまり似ていないと結論付けている。以上の要約で、どう思われるだろうか。私も、全く似ていないと思うし、これが剽窃であるとしたら、世界の文学は、ほとんどが、何か他の作品の剽窃だと言われかねないのではなかろうか。

 井伏鱒二は、「かけ」をヒントにしたと語っていたというが、私は、確かに、「賢明なスナムグリ」よりは、どちらかというと「かけ」に似ているように思う。かけの主人公が、かけをしたのは、確かに自らの意志であるが、しかし、挑発にひっかかったという感じもある。つまり、完全に自分の意志ではなかったといえるし、ここで重要なのは、閉じ込められた長い間に、様々な心情の変化が現れることである。自暴自棄になったり、他人を軽蔑したり、あるいは自己満足に浸ったりする。「かけ」の主人公は、最後は、自分のプライドを守るために、あえて勝利の直前に個室を出てしまうのだが、蛙との交流が生じる山椒魚との類似性を感じさせる。それは「自分を取り戻す」という点といえるだろうか。

 もちろん、いずれも似ているようでもあり、また、似ていないともいえる。しかし、「かけ」と「山椒魚」は全く似ていないが、ロシア人が読めば、「賢明なスナムグリ」そっくりだ、というのは、納得できない評価としか言いようがない。ロシア人がそう思うのは勝手だが、その話を、自分は内容上の比較検討をしないで、思わせぶりに「剽窃」を仄めかすというのは、評論家として、かなり悪質と言えよう。

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