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zoom RSS 社会科教科書をめぐる不毛な対立は、新しい形態の教育で乗り越えよう

<<   作成日時 : 2011/09/13 09:50   >>

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 教科書採択をめぐる各地での紛争が目立つ。教科書問題は戦後何度も起き、多くが社会科、特に歴史関連だったが、今回も同様だ。戦後改革への反動が起きた1950年代、まず「うれうべき教科書問題」などと称して、当時の民主党(後自由党と合同して自民党に)当時の教科書を偏向と攻撃し、その後、「侵略」を「進出」に書き換えさせる動き、従軍慰安婦問題等の攻撃から、やがて「新しい歴史教科書をつくる会」が自らの教科書を編纂し、その路線は、内部対立を含みながらも、育鵬社の歴史や公民の教科書へと展開していく。
 それに対して、家永教科書訴訟からの一連の検定批判があり、この二大対立は現在もなお継続して、教科書検定や採択の年になると、ニュースを賑わしてきた。

 特に今年度新しい現象と考えられるのは、沖縄県で起きた採択協議会の結論と教育委員会の決定が異なったという事態である。採択協議会は育鵬社の教科書を採択したが、竹富町の教育委員会は拒否、東京書籍を採択したとされる。産経新聞は竹富町の決定は違法であると決めつけているが、それは必ずしも正しくない。教科書の最終決定権は、公立義務教育学校の場合は、教育委員会にあるからである。しかし、教科書無償措置法は、複数の市町村で設定する採択協議会が採択した教科書を、その市町村で採択することを前提としているので、こうした法律論議が起きるわけだ。

 このような採択をめぐる紛争状況に、嫌気がさしている市民や教師も少なくないに違いない。政治対立が必要であるとか、生きがいを感じるというような人でなければ、なんとか違う状況を願うのは、ごく自然だろう。

 幅広い視野を獲得し、様々な価値観を理解した上で、自分の意見をもつことができるような、つまり、今の国際社会で求められている人材を育成するという観点でみれば、まったく新しい歴史教育の在り方が求められているといえる。もっともそれはいろいろな人から提案されてきたと思うし、欧米では珍しくない方法である。

 日本の歴史教科書は、私は非常に貧弱であると思う。しかも、小学校、中学校、高校と3回も繰り返し日本の歴史を学ぶというのは、いかにもロスが大きいし、無駄であり、かつ深く歴史を学ぶことを難しくする。このやり方をやめることがひとつである。つまり、例えば、小学校では古代、中学校では中世、高校で近代を学ぶというように、時代を区切って、それぞれの段階で、もっと詳しく学ぶ方法である。これは欧米では普通の方法である。歴史嫌いは多いが、そのひとつが、浅くしか学ばないので、面白さが理解できる前に終わってしまうという点にある。そもそも日本のように長い歴史がある国で、一年で全歴史を学ぶなどということは、無理なのだ。

 ふたつめの改善は、特定の教科書を使うのではなく、複数の教科書を使う方法である。詳しく学ぶためには、どうしてもより厚い教科書である必要があるし、また、複数ということになると、生徒全員が所有するのではなく、学校所有となる。つまり、学校所有の教科書を複数参照しながら、異なる観点も含みつつ歴史を学ぶのである。これも欧米では普通の方法である。生徒各人に所有させるために、どうしても安価であることが必要となり、そして、内容的には貧弱になる。

 欧米流の教育がすべてよいとは限らないが、少なくとも歴史教育に関していえば、長い歴史教育の伝統があり、かつ価値観の対立という局面に対応してきたという経験もある欧米の歴史教育は、学ぶ点が多い。

 歴史観をめぐる対立を、子どもたちが通うする教科書の対立へと、大人の対立を持ち込むようなことは、それこそが非教育的である。そして、この対立を、多数決で、そして、各地での政治的運動によって決着させていくというのは、負の連鎖しか生まないではないだろうか。

 PISA問題で学力への再検討がなされたが、社会関連でも、思考力や課題発見力等を重視する必要があることは変わらない。そのためには、ひとつの立場を無理に選択して、その線で学ばせるということが、こうした能力の形成にプラスにならないことは、誰でも了解されるはずである。

 実際に見解の対立がある場合、その両方を参照しながら、様々な資料等もあわせて、自分たちで考えながら行う授業こそが、求められており、そうした中では、不毛な政治対立も軽減できるはずである。

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内 容 ニックネーム/日時
英語圏に行けば、片言の英語でも通じる。暮らしてゆける。
完全な英語でなくても、英語環境がととのっているから通用するのである。
英語環境がととのっている環境で生活していれば、そのうちに、英語も上達する。

我が国においては、どんなに英語が堪能であっても就職先に困る。
それは、人々が英語を使わないからである。これでは、暮らしそのものが成り立たない。

日本の学校で6年間英語の授業を受けてもまず話せるようにならないのは、英語環境が整わないからである。
一歩学校の外に出ると英語を使わないのでは、せっかく習った英語も錆ついてしまう。
日々の学習努力も賽の河原の石積みとなっている。

日本の学生のために英語環境を整えることが、語学力を増すことにつながると考えられる。
それには、英語を我が国の第二公用語にするのがよい。
国民も政治指導者も、英語の使用を日本人のあるべき姿と考えることが大切である。


http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

noga
2011/09/13 10:47

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