教育と社会を考える

アクセスカウンタ

zoom RSS 吉見俊哉『大学とは何か』(岩波新書)を読む。

<<   作成日時 : 2011/12/27 21:58   >>

面白い ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

 吉見俊哉氏の書いた『大学とは何か』(岩波新書)を読んだ。大学論としては出色で、中世に発する大学が、現在なお継続発展したのではなく、大学はグーテンベルクの出版革命などで一度死んだ後、近代国民国家に対応する形で新生して現在に至っているという視点で書かれたもので、いろいろと学ぶ点が多かったが、出版革命で危機に陥ったと説明しているから、現在をインターネットで同じように危機に陥っているという分析をもとに、全入時代の大学の生き残りというような狭い視点ではなく、大学という制度そのものの生き残りについて論じるのかと思いきや、インターネットは簡単に触れられているだけで、戦後の大学の危機については、1960年代の大学紛争を主に論じていることについては、かなりがっかりしてしまった。
 もっとも、大学紛争時代、バリケードの中では自主講座などが開かれ、決して、ストライキをしているが故の「学問の不在」があったわけではなく、むしろ「真の大学」を求める雰囲気があったことを指摘している点は、当時、大学一年で、ストライキの間、クラスで毎日クラス討論や、自主講座を行っていた当事者として、後からきた世代である吉見氏の描き方に共感を覚える点はあったが、やはり、今日の大学の最大の危機は、インターネットの爆発的な普及によって、知のあり方が根本的なところで変革されつつある点に、大学が対応できずにいることであると思うのである。リナックスやウィキペディアは既存の知識産業では決してなし得なかった知の成果であるが、これはインターネットなしにはあり得なかったものである。
 吉見が指摘しているように、グーテンベルクの印刷革命以後、現在までに残る知的巨人たちの多くは、大学とは無縁であった。パスカル、デカルト、スピノザ、ルソー等々。もちろん、ニュートンやアダム・スミスのように大学の教授であった人もいるが、当時の大学の枠からはみ出たところで、近代思想が準備されてきたことは否定できない。
 インターネットのもっている力はどんどん増殖しているから、もっている可能性は計り知れないが、1これまでの規模とは次元の異なるレベルで、人の共同的作業を可能にしたこと、2時間と空間の制約を超えて、共同作業を可能にしたこと、3中世ヨーロッパの「ラテン語」が果たしていたような共通言語として、英語が定着し、国際的な共同作業が可能になっていること、4狭い意味での専門家ではなく、上記のような共同作業を可能にするような専門的知識と共同作業リテラシーが求められるようになっていること、等々によって、知のあり方が大きく変化しつつある。
 それに対して、大学は、人と人との直接的な関係性における教育・研究活動を現在なお軸としており、そのことが、今後も無意味になるとは思えないが、インターネットのもっている「広がり」をうまく取り込むことができない限り、大学というシステムは生き残ることはできないのではないかと考えられる。
 私はインターネットの前の形態である「パソコン通信」の時代に、「現代思想」を論じる会議室の責任者を数年間務めたことがある。思想的な立場や専門分野に棲み分けた状況になっている既存メディアに対して、さまざまな傾向や分野の者が、まったく自由闊達にあらゆることを論じ合う場であった。多くのトラブルも発生したが、そこでの討論は、実に実りのあるものだった。そして、多くの参加者にとって印象的だったことは、専門家を名乗る討論者が、意外に専門的力量が低く、しばしば素人に論破されていたことである。これは、インターネット時代における知識人のあり方を予見するようなものであったと思われるのであるが、そういう意味で、吉見の著書が、この点をもっと掘り下げて論じる必要があったのではないかと思われる。
 今後少しずつ、インターネット時代における大学のあり方について、考えていきたい。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
面白い

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
吉見俊哉『大学とは何か』(岩波新書)を読む。 教育と社会を考える/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる