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zoom RSS 橋下流教育改革の検討1 競争主義で学力は高まるのか

<<   作成日時 : 2012/01/11 12:39   >>

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 橋下大阪府前知事が主体となって作成した「大阪府教育基本条例案」について、意見を求められていたのだが、なかなか時間がなくてチェックできていなかった。やっと昨日全文を入手し、ざっと目を通してみた。極めて重要な力を発揮する可能性がある「案」だから、やはりきちんと検討してみなければならないと思い、少しずつ内容を吟味していきたいと思う。

 今回は全体的な印象について述べ、次回から、条文ごとに検討していきたい。

 最初に断っておきたいのは、橋下氏が極めて大きな影響力をもった人物であることはもちろん認めるが、基本的に信用できない人物であると思っている。そういうバイアスがあることは最初に明らかにしておくべきだろう。何故信用できないかというと、光市での母子殺害事件での差し戻し裁判の際、まだ知事になっていなかった「タレント弁護士」であった橋下氏は、こんな加害者を弁護するような弁護士は弁護士に悖る人物だから、非難しようという「運動」を呼びかけたからである。どんな凶悪犯であっても、弁護士をつける権利があり、また、そうした事件においては弁護士がつかなければ、裁判そのものが成り立たないことになっているのだから、いくら凶悪な犯人であったとしても、ついた弁護士を非難するというのは、まったくお門違いである。しかも、そうした非難をした当人が、弁護士だというのだから話にならない。弁護士会からの懲戒処分が下ったと記憶するが、少なくとも、彼は自らのまったくおかしな主張が、誤りであったと認めていないと思う。「判断には従う」というような言い訳をしたにすぎない。つまり、社会的に完全に合意されている制度理念(いかなる凶悪犯も弁護士をつける権利があり、弁護を務める弁護士が非難されることはない)を、蹂躙するような行動を、しかもマスメディアを利用して行い、その誤りを指摘されても、誤りを認めないという人物、それが橋下氏である。このことは、彼が教育について語るときに、忘れてはならないことだと思うのである。

 さて、大阪府教育基本条例の案は、かなり膨大な量であるが、目次を見ればすぐにわかるように、教師の懲戒処分についての規定が、半分以上を占めている。つまり、この条例の意図は、彼が(とまで言うと言い過ぎかも知れないが)評価しない教師を辞めさせることを可能にすることだという印象をまずもつ。そして、その背景にある教育観は、「人間は競争によって育つ」「人間は管理をしないと怠けてしまう、だから処分を前提とした強権的な管理運営が、学校を機能させ、教師を働かせるために不可欠である」というものだろう。そしておそらく、彼にとっては教育は政治の一環なのであろう。

 「人間は競争によって育つ」というのは、どこに現れているか。第二条の基本理念という条文がある。

(基本理念)
第二条 府における教育行政は、教育基本法第二条に掲げる目標のほか、次の各号に掲げる具体的な教育理念に従ったものでなければならない。
 一 個人の自由とともに規範意識を重んじる人材を育てること
 二 個人の権利とともに義務を重んじる人材を育てること
 三 他人への依存や責任転嫁をせず、互いに競い合い自己の判断と責任で道を切り開く人材を育てること
 四 不正を許さず、弱者を助ける勇気と思いやりを持ち、自らが社会から受けた恩恵を社会に還元できる人材を育てること
 五 我が国及び郷土の伝統と文化を深く理解し、愛国心及び郷土愛に溢れるとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する人材を育てること
 六 グローバル化が進む中、常に世界の動向を注視しつつ、激化する国際競争に迅速的確に対応できる、世界標準で競争力の高い人材を育てること

 この内容のほとんどは新しい教育基本法にもられている内容である。しかし、第三項の「互いに競い合い」という内容は、教育基本法にすら含まれていない。つまり、この理念の、橋下流の特質はこの「競争」理念にある。そして、完全にいわゆる「上から目線」となっている。第四項に「弱者を助ける勇気」を主張しているが、その前の第三項には、「他人への依存や責任転嫁をせず」と書かれているのである。援助を受けることは、ある意味「依存」することに他ならない。もちろん、厳密にいえば異なる面があるが、助ける必要のある弱者を助けるという行為は、弱者から見れば、依存せざるをえない面において依存しているのである。人間社会は、相互に助け合うことによって成り立っている。逆にいえば、相互に依存しあっているのである。しかし、橋下流人間観は、自分は依存しないが、弱者はたすけてやる、自分はそういう勇気をもっている、そういうもののようだ。競争に勝った強者の論理そのものを追求しているのである。
 それは「平等」に関する規定をみてもわかる。

(児童生徒の教育を受ける権利)
第三条 府内におけるすべての児童生徒は、等しく教育を受ける権利を有する。
2 府は、自立支援が必要な児童生徒、学習障がい及びこれに類似する学習上の困難を有する児童生徒が等しく教育を受けるために必要な措置を講ずるよう、努めなければならない。

 教育を受ける権利についての条文は、これだけである。教師の懲戒に関する規定は、延々と続く長いものであるのに。意識の焦点がどこにあるか明瞭であろう。
 「等しく教育を受ける権利」とはどんなものなのか、それを阻害する要因には、どのようなものがあるのか、もし、本気で平等な教育を保障する意図があるならば、教師の懲戒規定ほどではないにせよ、もっと丁寧な内容が並ぶはずである。教育の平等を阻害する要因は、自立支援の困難性、学習障がいだけではないことは、教育に関わっている人ならば、誰でも知っている。しかし、それを丁寧にフォローする意志はないようだ。
 等しく教育を受ける権利は、憲法に書いてある、学習障がいは支援が必要であることは、文部科学省の基本政策になっている、だから、仕方なく書いた。それだけ保障しておけば、あとは、「競争」によって敗者となったとしても、それを「責任転嫁」するな、自分の責任なんだ、というわけだろう。

 人間が学習し、成長する最も基本的な契機は「競争」ではない。人間は相互に助け合い、依存し合う中で社会を形成しているのだということを、正確に理解すること、そこに学習意欲の基礎があるのだ。もちろん、競争が学習を促進する契機になることはあるが、最も重要な要素ではないし、逆に阻害要因になることも少なくないのである。競争的な受験勉強をして獲得した学力が、合格すると、簡単に抜けてしまうことは、多くの人が経験しているだろう。学力の剥落現象といわれるものだが、それはただ勝利する、合格するという目的で勉強したから、合格を手にすると、不要なものになってしまうからである。
 しかし、本来の学習目的に則したものであるならば、あることで不要になるというものではないし、ますます必要な知識が膨らんでいく。

 勝者にならなければ気がすまない橋下氏としては、大阪府がいつも学力の低い地域であることにがまんならず、何としても学力の高い地域にしたいのだろうが、こうした競争主義をあおることで、学力はそんなに高くなるわけでもないのだ。むしろ、そうしたやり方では多くの不正を生じさせるのが、歴史の示してきたところである。

 教育観に関して、基本的な疑問をもたざるをえないというのが、今回のまとめである。

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2012/01/14 10:09

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