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zoom RSS 橋下市長の「落第」提案について

<<   作成日時 : 2012/02/28 22:12   >>

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 精力的に問題提起をする橋下大阪市長から、義務教育でも留年をさせるべきだという見解が示され、大きな議論を呼んでいる。教育学を専門とする私としては、この問題は避けて通りことはできないので、意見を書くことにする。

 新聞等でも指摘されているように、留年は、今でも法的に可能である。学校教育法施行規則の小学校の規定で以下のようなものがある。

第五十七条
 小学校において、各学年の課程の修了又は卒業を認めるに当たつては、児童の平素の成績を評価して、これを定めなければならない。
第五十八条
 校長は、小学校の全課程を修了したと認めた者には、卒業証書を授与しなければならない。

 この規定は、中学校にも準用されるとしているので、要するに、義務教育学校では、各学年課程の修了や卒業は、成績を評価して定めるわけだから、成績が不十分である場合には、認めないことが筋なわけである。しかし、このような規定にもかかわらず、日本の義務教育学校、少なくとも公立の義務教育学校では、この規定が適用されることは、ほとんどないとされている。これは、日本の「進学」が、課程の修了を基礎にするのではなく、上級機関の選抜によるものとされてきたことと関係があるだろう。欧米の主な進学の制度は、卒業資格によって左右される。大学の入学は、高校の成績や卒業資格によって決まるというシステムである。従って、下級の学校は、上級の学校に対して、自己の教育の認定に対して、きちんと行う責任を負っている。そして、そのことから、各学年の修了認定も、それなりの基準で行う教育的風土がある。小学校*年生では、この程度のことができなければならないという、学校社会におけるコンセンサスがあるといえる。

 しかし、日本は、私立中学、私立高校、大学などの入試では、基本的には、下級の学校の成績はほとんど考慮されることがない。公立高校でさえ、中学の成績が考慮されるとはいえ、それは入試の合否を左右するという意味で意識されるのであって、中学の卒業にふさわしい学力を身につけたかどうか、などという観点から意識されることはほとんどないのである。もちろん、それはおかしいということは正しいだろう。しかし、実態として、ほとんどの学校関係者や保護者も、また行政官も、それを変えようとしてきたとはいえない。そうした一定の水準の学力獲得=修了・卒業認定という意識のないことが、最も典型的に現れているのが、どんなに欠席が多い不登校の生徒であっても、ほとんど問題なく卒業させていることである。

 つまり、日本の学校では、本来学校がもつべき修了認定が、上級学校によって代替行使されるようなシステムができてしまったために、留年や飛び級などは、事実上不可能な状況になっていると考える必要がある。私自身は、修了認定が、もっときちんと獲得学力によって行われるべきであると思うので、まったく原則的なレベルでは、留年等を実施することについては反対ではない。しかし、それには、いくつかの前提条件が必要であると考えるのである。

 第一に、入学試験制度を変えることである。欧米のように、上級学校による選抜ではない、下級学校による認定によって上級学校への進学を決めるシステムを導入する必要がある。今のような入学試験制度を維持しながら、各学年の基準学力認定などをしていったら、それはかなり恣意的で、学校間が全くばらばらなものになってしまうだろう。現在のような統一的な教育内容が、国家によって定められているという、「平等」を前提とした制度であるのに、各学校でばらばらな基準で修了認定が行われたら、国民の中に大きな不安が生じるだろう。
 ヨーロッパでの留年や飛び級が、国民の納得を得ているのは、中学の段階から明確な格差のある(目的が異なる)学校種に別れ、それが基本的に小学校の成績によって決まっていくために、小学校では成績認定を、それなりに蓄積されたコンセンサスのある基準によって行う風土があるからである。中学校と高校の関係、高校と大学の関係も同様である。

 第二に、論理的にいえば、国家的な統一試験を実施するか、あるいは、教育内容な教育目標について、学校の裁量権をもっと広く許容し、実質的な学校選択制度を導入するかのどちらかが必要であろう。モンスターペアレントと言われるような親が無視できないほど存在しているときに、現在の国民が、あいまいな基準で留年させられて、そのまま納得するとは思えない。納得させるためには、両極端であるが、国家的な統一基準を適用するか、あるいは、学校ごとに違わざるをえないとすれば、あらかじめ選択権を認めて納得させるかであって、この中間はないように思われる。しかし、現在の日本で、このいずれも可能であるとは思えない。とするならば、無理にそれを実施させようとすれば、たまたま厳格に認定する校長や教師にあたった不運(もしかしたら幸運なのかも知れないが)な子どもが、たまたま落第させられたということになり、いかにも運が悪かったという受け取られ方になるに違いない。そのことが、好ましい教育的風土を形成するとは思えない。

 こう考えてくると、今、落第を無理に実施させるというのは、やはり現場にとって好ましいとは思えない。
 きちんと学力を保障させるためにやるのだ、といっても、それが実現するはかなり疑問である。落第したらか一生懸命勉強して、追いつこうと努力する保証はない。そのままどんどん落ちこぼれていく危険性だってある。欧米では落第があるという根拠づけがあるが、欧米諸国で、日本よりも学力が高いといえるのは、フィンランドくらいであって、ほとんどの他の国は、日本よりも低いのである。日本では落第させないで進級させているから学力が高いのだといえないこともないのである。

 ところで、欧米では留年しても、学力をきちんとつけてから進級すればよいという考えがあるので、ショックも受けない、などという言い方をよくするが、私が経験したところでは、そんなことはない。娘をオランダの現地校にいれた経験があるが、その小学校でたしかに落第する生徒が何人かいた。しかし、娘が接した限り、かなりショックを受け、しばらくは泣きはらしていたという。だいたい、友人たちと一緒に生活していて、自分だけ一年遅れる、しかも「劣等」のラベルを貼られて遅れるのだから、悲しくないはずがない。もちろん、あまりショックを受けいない子どももいるのだろうが、多くはショックを受けていると思う。

 結論的にいえば、現在の学校の状況の中で、落第を「奨励」するような政策はとるべきではないといわざるをえない。その前に、学力向上にとってマイナスの要因となっていると考えられること、1クラスの人数が多いこと、教師が忙しくて十分な授業準備ができないこと等の改善こそが先決であり、できることなら、理解の遅れた生徒のために、十分な補習が学校として行えるような教師の確保が行われるべきだろう。

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
ギフテッドに対して飛び級制度を用意しないのは罪だと思う。
当然、対となる落第制度も必要です。
ギフテッド
2015/11/27 22:51

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