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zoom RSS 義家政務官の体罰と指導の線引き論は、体罰容認であり、文部科学政務官として極めて問題だ

<<   作成日時 : 2013/01/17 22:50   >>

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 産経新聞の報道によると、「ヤンキー先生」こと義家文部科学政務官は、大阪市役所を訪れ次のように語ったそうだ。
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 会談後、記者団の取材に応じた義家政務官は「これは体罰ではなく日常的、継続的に行われた暴力で、事案を矮小化(わいしょうか)すべきではない」と強調。「体罰と指導の線引きについては今後、議論が必要」と述べ、部活動の指導における体罰の定義を見直す必要性について言及した。(産経新聞2013.1.15)
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 実はこのような見解こそが、体罰擁護論者の典型なのである。義家という政治家はまったく人間的な信用がおけない人物であるが、このような体罰肯定論であることも、また教育を論じる資格のないことを示している。
 体罰と暴力の違いとか、指導と体罰の線引きなどということは、教育論としては、問題設定自体が間違っている。そもそも体罰はすべて暴力である。暴力でない体罰などありえない。この程度はいいが、これ以上はだめだ、なとどいう線引きを文部科学省もやっているが、文部科学省自体が体罰を本質的なところでは容認しているのだと解釈せざるをえないのである。まして、指導と体罰などの線引きなどまったく必要ない。体罰というのは、一切許されないという立場にたてば、指導というのは、体罰をまったく含まないでやるべきものである。もちろん、自分もそう思うから線引きが必要なのだ、などといいわけをするかも知れないが、線引きという発想そのものの中に、体罰容認という要素がある。

 そもそも体罰と無縁の指導を考えているものであれば、当たり前のことだが「線引き」という発想そのものが浮かぶはずがないのである。
 そうすると、では生徒が教師に暴力振るってきても、教師は殴られるままにしろというのか、とか、生徒が生徒に暴力をふるっているときに、何もしないままにしろというのか、というような反論をする者がいるかも知れない。
 もちろん、生徒の暴力を容認することなどはまったく正しくない。また、生徒といえども、他の生徒の教育を受ける権利を妨げる権利は存在しない。暴力を振るい、それを適切な指導でやめないならば、警察との協力が必要だろう。
 しかし、今回の自殺事例を引き起こした体罰は、生徒の側が暴力振るったなどというものではまったくないのであり、教師の一方的な暴力(体罰)なのである。従って、一般論としては、生徒の暴力が問題となるにしても、今回の事例をもって、上記のような問題を出すことは論外であるし、まして、体罰容認的な線引き論などは、そもそも間違った設定であるという意識をもつ必要がある。

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