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zoom RSS 長嶋と松井の国民栄誉賞

<<   作成日時 : 2013/04/03 14:06   >>

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 長嶋と松井の国民栄誉賞が話題になっている。賛否両論あるようだ。長嶋はいいが松井はだめだというのもあるが、私はそもそも変ではないかと思った。最初このニュースを見たときには、エイプリルフールの一環だと思ったほどだし、そのように感じた人も少なくないらしい。ヨーロッパでは、4月1日はかなり大々的な嘘報道が行なわれるし、日本でもぼちぼちそうした雰囲気が出てきたところなので、なかなかいい線の報道だと思ったくらいである。
 しかし、どうやらその後の成り行きは、本当のことらしく進んでいる。
 本当のこととして考えてみると、まずは、松井にこれまでの実績を鑑みて、国民栄誉賞に値するほどの活躍をした選手とは思えないということがある。松井は打者としてはりっぱだが、波があり、不調の期間が長い印象がある。日本ではそこそこタイトルをとっているが、大リーグではまったくタイトルをとっていない。野茂のように、ストでまったく人気が低迷していた大リーグの人気復活に大きく寄与したというような功績もない。メディア対応がよく、いい報道がなされていたので、実力より大きく扱われていたといわざるをえない。これで受賞などさせたら、国民栄誉賞そのものの価値を低下させるだろう。もっとも私自身は、国民栄誉賞そのものに疑問をもっているので、低下してもかまわないのだが。
 長嶋はどうか。少なくとも実績という点で国民栄誉賞に値することは間違いない。しかし、そもそも国民栄誉賞というのは、王が本塁打世界記録を作ったことを記念して設定された賞である。賞ができた時点以後の功績に与えるのは当然として、遡って与えるものだろうか。
 夏目漱石に芥川賞を与えるようなものではないのか。もっと極端にいえば、ニュートンにノーベル物理学賞を与えようと考える人はいないだろう。大鵬のように死後与えるというものおかしな話だ。

 スポーツは基本的に「記録」の勝負であり、明確に記録が残る世界だ。従って、国民栄誉賞などというものの対象にする必要は、そもそもないのではないか。王だって、国民栄誉賞もらったから偉大な選手として記憶されるのではなく、本塁打の世界記録を達成したということで、記憶されるのではないか。
 とするならば、こうした国民栄誉賞なるものが意味があるとしたら、たとえばボランティアなどで大きな功績を残したような、明確な基準として記録が残るものではない活動に対して与えられるのがふさわしいと思う。そのようなものであれば、国民栄誉賞という制度に共感できる。

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