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zoom RSS 学術論文査読の匿名制について

<<   作成日時 : 2014/08/22 14:38   >>

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 stap 細胞は、実に多様な問題を提起したといえるが、そのひとつとして「査読」があると考える。私自身が、学会に所属しているから、数は極めて少ないが、査読をうけたこともあるし、また、したこともある。小保方氏の stap 細胞関連の論文は、Cell、Science、Nature と3つの自然科学のもっとも代表的な雑誌に投稿され、3回リジェクトされ、4回目に笹井氏が参加したことによって、採用されたことは周知の通りである。もちろん、論文作成の天才といわれる笹井氏の参加によって、論文自体はかなり改善されたのだろうが、それでも、さまざまな疑念が出ていたと、事後に報道されている。つまり、疑念があるにせよ採用されたことは、笹井氏の存在があったことは、間違いないだろう。
 私が、今回ここで考えたいことは、査読が匿名でなされるという点である。科学者たちは、匿名による査読は当たり前と思っているようだが、審査が匿名でなされるのは、むしろ少数なのではないだろうか。例えば、スポーツでは査読者は審判や評定者だと思うが、匿名であることはない。音楽のコンクールでも審査員は、きちんと公表されている。芥川賞も審査員は同様に公表されているはずである。つまり、ある作品、行為等を、正式な競争として審査が行なわれるときに、むしろ、審査するひとの名前は公表されていることの方が、多いように思うのである。これは、当然、審査が個人的な恣意によってなされることを防ぐためであろう。審査員が公表されていれば、おかしな評価をすれば、わかってしまい、その審査員自身の評価が低下する、だから、おかしな評価はしないようにというシステムである。
 これは、例えば、インターネットでの匿名制が無責任な言説を生みがちな原因であるという感覚と、近いものがある。匿名制が直ちに無責任を生むかは、議論の余地があるが、そうした傾向があることは否めないだろう。とするならば、学術雑誌における査読の匿名制は、無責任な査読を生む温床なのではないだろうか。ともに疑義があるにもかかわらず、stap 細胞論文が、4回目だけ採用されたのは、世界的な科学者である笹井氏が責任著者の一人だったからだというのであれば、さらに査読の信頼性は失われていると考えてみる必要がある。つまり、どんなに優れた論文でも、権威ある科学者が入っていない論文は、通りにくいことを意味しているからである。
 自然科学の世界では、次のようなことは、珍しくないという。
 あるひとが論文を投稿する。すると、査読者が選ばれるが、査読者は当然近い分野から選ばれる。専門分野が遠ければ、論文そのものの理解が難しいからである。ところが、近い分野の研究者が査読をすることは、実は、競争相手が査読することになる。当然、通せば、ライバルが有利になり、通さなければライバルを蹴落とすことができる。だから、無理難題を書いて、リジェクトし、自分でその成果を密かに実験して、別の雑誌に投稿。査読をするくらいの研究者だから、当然通りやすい。こうしてまんまと、若い研究者の成果を合法的に盗むことができる。いくら若い研究者が、あれは自分が最初にやったことだ、と主張しても、論文は通っていないのだから、説得力がない。匿名の査読だから、盗んだかどうかの証明はできない。
 こういうことだ。
 私は文科系の研究者なので、さすがにこのようなことは聞いたことがないが、特許やノーベル賞などの利害と絡む自然科学系では、少なくないようだ。こうした不正な査読を支えているのが、実は匿名による査読なのではないか。
 では、なぜこれまで長く、かつ多くの査読が匿名制をとっているのか。何か利益がないのか。私は、教育界の意識があるのだと思っている。査読者はもちろん研究者であるが、多くは、大学にポストをもっていると考えられる。世界中同じであるかどうかは、確信がないが、日本を考えてみると、成績評価は別として、対外的に推薦する行為は、通常匿名でなされてきた。入学試験に添付する調査書や、採用試験などに使用される推薦書などである。署名する場合でも、厳封され、受験者本人には読めないようにしている。また、その署名も、実際に評価した者ではなく、校長や学長の名前になることがほとんどではないだろうか。なぜ匿名にしているか、日本の教育界で大きな議論になったことがあった。それは「内申書裁判」である。中学時代に政治活動をしたり、その延長で学校の行事の妨害をしたとされる生徒が、そのことを内申書に書かれたかめに、ほとんどの高校を不合格になったことがきっかけとなって起きた訴訟である。問題になったのは、主に、進学に不利になるような内容を書くことが妥当であるかであったが、同時に匿名の問題も議論の対象となった。そして、匿名を支持する論理は、「匿名でないと真実を書くことができない」というものだった。そして、この論理は、教育界では広く支持されているように、私には思われる。インターネットの匿名批判と合わせると、実に興味深い対比的論理である。
 さて、科学論文の査読の問題に戻ろう。
 査読は匿名だけではなく、非公開という側面もある。匿名で当事者だけに開示されるのである。ふたつは区別して考える必要があるし、一方だけの変更もありうると思う。スポーツやコンクールの場合、名前は公開されているが、個々の判定は開示されない例もある。さらに、不当な査読があることを考えると、リジェクトされた論文が、まったく公表機会を失うとしたら、その問題も考えるべきだろう。
 査読が問題になるのは、通常は、リジェクトされたとき、執筆者が納得できないと感じたときだろう。今回の stap 細胞問題のように、なぜあのような論文が採用されたのか、という疑義は、あまり起きないような気がするが、それでも、問題が起きた以上、要するに、査読結果への疑義に対する公正さをどのように担保するか。通常、公正さの担保は情報の公開であり、公開された情報をもとに、是非を論じる機会があることが、公正さの担保となる。
 では、不十分な論文を書いて、公正にリジェクト判定された執筆者が、そうした査読の公開は自分の恥だから、公表されたくないという場合はどうなのだろう。自分に対して講評が来るだけにしてほしい、と。それはもっともだ、という立場から、その程度の覚悟で科学の論文を書こうとすること自体、批判されるべきで、論文を応募して、掲載されたいと望む以上、リジェクトされたときの講評も公開されること前提に応募すべきであるという立場もあるだろう。私は基本的に、後者の立場をとりたい。掲載を希望する以上、評価も公開されてしかるべきであるし、また、評価が公開されれば、有効なアドバイスをうけることもできるだろう。
 やはり、基本的には、公正な査読を担保するためには、査読内容が、査読者とともに公開されることが制度として妥当なのではなかろうか。
 さらに補足的に、リジェクトされた論文は、雑誌に掲載されないわけだが、執筆者が納得できない場合、雑誌掲載とはまったく別に、インターネット上に、応募論文としてアップロードを認めるという制度があってもよいように思う。つまり、否定的な査読に納得できず、論文に自信がある場合、講評の機会がなくなるのは科学のためにプラスにならないと思われることと、先にあげたように、査読者が研究成果を盗む場合、それに対する防止策にもなると考えられる。リジェクトして、成果を盗んで、別論文としてまとめ発表しても、このような公開論文があれば、日時を参照することで、リジェクト論文にプライオリティがあることが証明できる。こうすれば、匿名査読による科学の窃盗や不正な評価は、かなり防げると思うのだが。

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