教育と社会を考える

アクセスカウンタ

zoom RSS 佐世保事件の少女の父親自殺に思うこと

<<   作成日時 : 2014/10/05 22:30   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 6 / トラックバック 0 / コメント 0

 佐世保で同級生を殺害した高校1年生の少女の父親が自殺したという。この事件では、ブログでずっと書こうと思いつつ、実行しなかった。書こうと思った趣旨は、少女は親を殺害したかったのだということだ。もっとも、殺害とは、現実の殺人と想像的殺人の入り交じった感情だったと思う。あまりにも歪んだ感情だが、それを受けとめて、少女を立ち直らせることができるのは、父親だけだったろう。しかし、父親は逃げる一方だった。そのことを批判しようと思ったのである。
 だが、さすがにそれは憚られた。実際に殺されかかったわけであるし、それを批判するのは、さすがに控えるべきだと思った。しかし、父親が自殺してしまった以上、やはり、この事件で思うことを整理しておきたいと思う。
 少女の行為は、もちろん極めて歪んでおり、小学校時代の給食混入事件や、父親への暴行、同級生の殺害など、許されることではない。しかし、少なくとも、少女は、親に抵抗し、訴えていたのだと思う。母親はしっかりしていて、少女も好きだった、その母親が死んでしまったので、心の支えを失ったというような報道がなされてきたが、私は、大いに疑問だ。父親が病気で亡くなって、母親との暮らしになったとしたら、母親に対して、やはり、かなりの暴力を働いたのではないだろうか。父親は早々の再婚という、かなり非常識な行為に出たので、乱暴の度合いが大きかっただけで、母親に対しては異なった感情を少女がもっていたとは、私は考えない。では何故、世間的にりっぱな親に、直接的、間接的に抵抗したのか。それは、親の見栄によって、自分の納得できない生活を強いられていたからだろう。少女は、スポーツは苦手だったし、嫌いだったと友人たちは述べていたそうだが、県では一人しか選手のいない競技をやらされ、全国大会に出場するも、全国的レベルからはほど遠く、おそらく恥ずかしい思いをしたのだろう。父親と参加する姿が、地元では大きく取り上げられ、文武両道のスポーツ一家として有名だったそうだが、それは全く強制された虚像であり、少女としては、嫌で嫌で仕方なかったと想像する。そして、その件に関しては、母親も深く関わっていた。これは、一例に過ぎず、生活のさまざまな面で、同様のことがあったのではないだろうか。成績もよく、スポーツも優れた子どもたち、東大と早大卒の両親という、世間的には羨む家庭でも、少女にとっては閉塞感に満ちたものだったに違いない。「いい子」を演じている子どもが、あるとききれてしまう事例は、これまでもたくさん報告されている。しかし、そのほとんどは、家庭と学校、せいぜいその地域社会で子どもが「いい子」を演じているにすぎない。しかし、この少女の家庭は、それを「全国的な活躍」まで演じさせられ、報道までされているわけだ。自分でも好きなことならともかく、嫌々だったとすれば、鬱屈した気持が生じなければ、かえって不思議なくらいだ。だから、最初は小さな抵抗をしていたが、次第に、少女の理解してほしい方向とは違う面での対応をされ、次第に大きな抵抗に発展していったのではなかろうか。それを是正できるのは、原因をつくった両親以外にはなかったのである。しかし、母親も含めて、表面的な対応ばかりしていたのではなかろうか。
 少女が問題を抱えていることは、小学校時代からであり、様々な組織がそこに関わっていた。そして、連携のない状態で、事件を引き起こしてしまったとして、組織の対応が問題視されている。実際に、組織や関わった専門家が、適切な対応をとれば、事件は防げたのだろうし、連携のあり方を検討すべきであろう。しかし、明らかな殺意をもって、金属バットで頭を強打された父親自身が、それを隠蔽してしまうような状況であれば、関係組織が連携して対応することは、やはり難しかったのではなかろうか。
 したがって、組織的対応をここで批判するつもりはない。ただ、一連の組織の対応を見ると、ハンナ・アレントの言葉を思い出す。アレントは、プライバシーは、「奪われる」という言葉からきているということを、「人間の条件」の中で指摘している。アレントは、多様性を相互に認める人間が、自由な討論をし、自由に自己を表現する状況を、「人間的」と考えた。プライバシーは、自由な自己表現への制限としての側面があることを指摘したわけである。もちろん、プライバシーの尊重は必要であるが、プライバシーを超えなければ、問題が解決できない場面があるし、また、信頼しなう関係においては、プライバシーはあまり重要ではないことも事実である。
 少女が同級生を殺害する前に、診察した精神科医が、「人を殺すかもしれない」と児童相談所に通報したが、個人情報であるために、個人名を伝えなかったという。個人が特定されなければ、相談所としても対応できないことは自明である。医者は、相談所にどのような対応を望んだのだろうか。もちろん、医者としては、できる最大限のことをしたというだろうが。ここでは、明らかに「個人情報」なる概念が、活用に対する誤解の下に、問題解決を阻害している。実は、学校現場で、個人情報保護法が制定されて以後、教育実践を非常にやりにくくしている事態がたくさんある。もちろん、必要な保護もあるが、この事例を見る限り、個人情報保護のあり方の再検討が必要であると思う。私がこの事件で考えざるをえなかったのは、この二点である。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 6
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス ナイス
面白い

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
佐世保事件の少女の父親自殺に思うこと 教育と社会を考える/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる