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zoom RSS エルシステマ論1

<<   作成日時 : 2014/12/10 11:36   >>

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 エルシステマというベネズエラの青少年のオーケトスラ運動は、国際的に大きな注目を浴びているが、日本でも次第に知られるようになってきた。まだまだ音楽家中心の関心であるが、私は前から、音楽以外の社会政策的な側面で注目してきた。もちろん、私自身、アマチューであるが、チェロを市民オケで弾いているので、音楽的な注目はいろいろな点でしているが、研究者としては、やはり、非行や犯罪を矯正することができるかどうかという点で、最も大きな意味を見いだしている。
 そして、昨年から一大決心をして、論文に纏めようと考えて、本格的な研究をしてきた。10月段階で論文にまとめ、3月に公表されるが、論文に書き切れなかったことなども含めて、ここで連載的にエルシステマについての文章を書いていこうと思う。
 大きな注目を集めているエルシステマであるが、私は、かなり岐路にたっていると感じている。それは、近年大きな支えであり、また、拡大を志向していたチャベス大統領が死亡して、マロウロ大統領にかわって、ベネズエラの政治そのものがかなり不安定になり、それまでは考えられなかったドゥダメル批判なども起きているからである。ドゥダメル批判は、私はナンセンスだと思っているが、そうした現象が起きていることが、社会の変化であることは間違いない。これまで、政権の交代にもかかわらず、政府が確実に援助してきたエルシステマであるが、マドウロ政権が倒れて、新自由主義的な政権ができたとき、これまでと同じように、エルシステマへの援助を継続するかはわからないと思っている。それは、近年の原油価格の低下によって、ベネズエラの政府の収入がかなり減少しているといわれていることも、エルシステマにとっては、不安材料とならざるをえない。
 一月ばかり前に、私は、あるベネズエラ紹介のブログで、ドゥダメル批判をしているので、そこにコメントを書いたことがある。今年の2月のエルシステマ誕生の日に、毎年行われる演奏会の際に、ドゥダメルに対して、マドウロ大統領臨席の演奏会などはボイコットせよというデモがおきたことに対して、そのブログの主は、その批判に同調していたので、それを批判するための書き込みであった。ドゥダメルは、そうした政治的批判に対しては、距離をおき、なんら対応をしなかったために、アメリカなども含めて批判が巻き起こったわけであるが、そうしたことこそ、問題の多い文化の政治利用であると思うが、ただ、これまでほとんど批判されることのなかったエルシステマが批判されたことに対して、ベネズエラの雰囲気も変化してきているのだと感じたのである。

1 クラシック音楽演奏の非行矯正性
 私は、年来、クラシック音楽の楽器を演奏することは、犯罪抑止効果があるという信念をもっていた。もちろん、単なる信念であって、科学的に検証したわけではない。研究者として検証したいと考え、自分では難しいので、臨床心理学専攻の院生の何人かに、この考えを示して、それを研究するように勧めてみたことはあるが、それを実行してくれる院生はいなかった。私としては、非常に残念に思っている。
 では、何故、上記のように思ったのか。
 ひとつは理念的な発想である。クラシック音楽は、決められた楽譜を演奏するものであり、同じ曲を無数の人が、繰り返し演奏している。録音などで、有名曲は多くの人に知られている。楽譜を厳密に演奏することが求められ、しかも、わずかなミスも見逃さないような聴衆がいる。そこで求められるのは、非常に高度な自己コントロールである。そして、演奏する曲は、真の天才たちが作曲したものであり、深い感動が内包されている。この自己コントロール能力と、畏敬の念が、犯罪を犯さない抑止力となると考えていたのである。実際に、ニュースなどで、クラシック系の演奏家が犯罪者として報道されることは、極めて少ない。ポピュラー系の音楽家はそうでもないし、一般的に、犯罪を犯してはならないという意識の高い教師や警官などは、頻繁に報道されている。実際の事件と報道の数には、正確な対応関係はないかも知れないが、やはり、大きく実体と異なっていることはないだろう。そのように考えると、科学的に実証されていないにせよ、上記仮説は間違っていないと考えていた。
 しかも、戦前同じような考えを実践している人が存在していたのである。20世紀の代表的な指揮者であるブルーノ・ワルターが、アメリカのサンフランシスコを訪れたとき、ある合唱指導者が、刑務所で囚人たちに合唱指導をしたところ、囚人たちの人間性が格段に改善され、その合唱に参加した人たちは、出所後、再犯をしなかったといわれたという。ところが、刑務所の方針で、合唱は止めざるをえなくなり、残念な思いだったので、有名なワルターに助力を依頼にきたのだそうだ。合唱を実際に聴いたワルターは次のように感想を書いている。

「場内が静まり、音楽が始まって、めいめい違った気持ちをいだいているこれらの人々を音楽の世界へと連れてゆく。・・・すると、舞台から流れ出ている音楽の影響のもとに、硬い顔つきは融けて柔らかく、ずるそうな顔を善良になり、気の抜けた陳腐なのは引き締まって真剣になり、シニカルなのは感動した表情をうけべてくる。・・つまり、どの人も何か深い、そして善いものの作用を受けているだということを示す一種の表情の変化が現れたのを、たぶん皆様がたは記憶しておられることでしょう。」(ブルーノ・ワルター「音楽の道徳的力について」フィッシャー『音楽を愛する友へ』佐野利勝訳(新潮文庫)p96
 ワルターはそうした試みを、ドイツでもやるべきだと主張していだ。(p118−119)何故音楽にそのような力があるのか、ワルターによれば、その中心は、ハーモニーと調性にある。音楽はいろいろなことを表現するし、不協和音なども使うけれども、最後は協和音となって安定する。不協和音は不安を表すが、協和音となって安心を提示するというわけで、こうした和音の性質が、人々の間の人間的な協和性を促進するとワルターは解釈している。(p103)
 しかし、こうした刑務所での音楽的実践は、あまり普及することはなかった。(ただ、いくつかの国で、刑務所内に合唱団を組織して、成果をあげている事例はあるようだ。テレビのドキュメントで紹介されたという話をきいたことがある。)この考えには、明確な難点がある。それは、犯罪や非行を犯す人たちが、もっとも好まない音楽がクラシックだからである。だから、実際に上達するほど練習して、人に演奏を聴かせるほどになるという事態そのものが想定しにくいのである。この実現のためには、何か特別な前提条件が必要なのだが、以前の私には、それは明確に意識できなかった。
 そうこうするうちに、エルシステマが世界的に話題となり、日本でも紹介するひとたちがでてきた。国際的に高く評価されるオーケストラ演奏や、個人としての指揮者や演奏家がたくさん輩出し、しかも、世界でもっとも危険な国のひとつとされるベネズエラで、子どもたちを犯罪から守っているという。しかも、そのふたつの要素は、エルシステマにおいては不可分の関係になり、どちらかが目的で他方が手段というものではない。「音楽を通して社会の改革する」という理念の実現をめざしており、かなりの成果をあげているのである。何故可能になったのか、筆者としては、どうしてもそれを探る必要を感じたのである。


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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
記事読ませていただきました。
二年前の記事ですが、今でも音楽で犯罪を防げるとお考えなのでしょうか?
また、今でも音楽は政治的ではないとお考えですか?
Gai
2017/01/04 22:55
コメントありがとうございます。多少回答が長くなるので、ブログ本体に回答を書きました。できたらそちらを参照してください。
http://wakei.at.webry.info/201701/article_1.html
wakei
2017/01/05 18:43
2017年ウイーンフィルのニューイヤーコンサートの指揮者はドゥダメルでした。彼の姿勢に対してウイーンフィルは考慮しないのか。直接的ではないが、毎日・論説委員の福本容子が、ウイーンフィルとナチスとの関係を問いだしている。
dan
2017/01/07 16:21
コメントありがとうございます。逆にお伺いしますが、ドゥダメルは、何か考慮しなければならない「姿勢」などというものがあるのでしょうか。私には思いつかないのですが。福本容子氏の文章を読んでみましたが、支離滅裂で何をいいたいのか、まったくわかりませんでした。これまでも散々繰り返されてきた、音楽家とナチの関係に関する論議の中でも、最も薄っぺらな文章であるといわざるをえない感じがしました。この文章で何か学ぶところがあるなら、ぜひご教授いただきたく思います。
wakei
2017/01/07 21:48

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