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zoom RSS 部活の事故が多いことについて考える

<<   作成日時 : 2015/04/07 21:58   >>

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 文部科学省の公表によると、学校事故の3分の1以上は部活動中に発生しているというので、議論になっている。私は、前から、学校の部活動をやめるべきだと考えている。しかし、大学で教師になるべく勉強している学生たちの意識は、それとは全く逆で、部活こそ学校の中心というような意識をもっている学生が少なくない。部活の顧問をやるために教師になりたいという者までいる。
 ところが、近年、スポーツを積極的にやっている、たとえば大学で体育会系の部活に入っている学生のなかで、部活はよくないと主張する者もめだってきた。部活の指導者はレベルが低いので、伸びないというのだ。日本のスポーツは、戦後ずっと部活中心に発展してきたので、なかなか意識は変わらないと思うが、単に「事故が多い」というだけではなく、今や部活の弊害が多くなっていると思う。
 部活がこれまで盛んだったのは、いくつかの理由がある。
 第一に、部活が競争意識を高め、学校の児童・生徒であるという帰属意識を高揚させる上で効果的だった点である。甲子園に出場した高校の地域ぐるみの応援を見るとよくわかりる。
 第二に、スポーツが生活指導の柱として位置付けられてきたためである。最近は薄れているが、部活で拘束していれば、悪いことができないだろうというので、朝練から始まった日が暮れるまで練習することが普通だった。
 第三に、スポーツや文化施設が、ほとんど学校に作られてきたからである。いまでは社会体育施設があちこちにあるが、それでも学校にある体育施設の数とは比べることはできない。大人がスポーツをする場合、まだまだ学校開放による学校施設を使用する例が少なくない。
 しかし、以上の点は必ずしも長所ではないし、他の欠点が部活には多々ある。
 部活で拘束していれば、悪いことはしない、などということは、実態としても間違っていた。部活内部でのしごき事件など少なくないし、部活を辞めてしまった子どもは、逆に指導から離れてしまうことになる。
 そうしたこと以外に、現在の部活にどのような欠点があるのか。
 第一に、スポーツや文化活動は、それぞれの好みや求めるレベルが多様であるにもかかわらず、部活はひとつのスポーツにひとつの部しか存在しないから、その部のレベルにあわない子どもは、どうしても疎外される傾向となる。野球を楽しみでやりたいのに、甲子園をめざしているような野球部であれば、まず入部することすらしないだろうし、入部しても、試合にでることはできないだろう。逆に、楽しみでやっている者たちばかりの部に、高いレベルで厳しい鍛練を望んでいる者が入ったら、物足りなさで嫌になるだろう。大学のように、大きな学校では、さまざまな要求に見合った同一スポーツの部やサークルが存在し、自分の好みにあったところに加入すればいいのだが、小中高では無理だろう。
 第二に、通常部活はその学校の教師が顧問になるので、ほとんどの場合、専門的な指導はできないし、また、片手間の指導になる。事故が多くなる原因もここにある。日本の教育全体の傾向かも知れないが、本当に専門的な指導能力をもった人が指導をすることに、それほどの価値を置かない風土がある。ヨーロッパ流の社会体育と日本の学校体育のテーマで学生たちと議論しても、生徒をよく知った教師の指導のほうがよい、専門家が指導すると技術は高まるかも知れないが、楽しさなどを教えられない、などという意見が多くでるのだが、おそらく実際には逆だろう。専門的な指導能力をもった人が教えるほうが、そのスポーツの楽しさを上手に教えることができる。そして、重要なことは、専門家は、スポーツの危険性を熟知しているので、指導のなかでの安全配慮がきちんとしている点である。
 そして、専門家の指導は、やはり、より適切に能力の向上を実現することができることである。昨年度の学生で、「かけっこ」の指導について卒業研究を行った学生がいたのだが、かけっこは、学校で「指導」することがほとんどないので、先天的な資質によって速い遅いが決まるのだと思われているが、適切な指導をすると、驚くほど、誰でも速く走れるようになるのだそうだ。部活のほとんどは、実は、この「かけっこ」指導レベルなのではなかろうか。つまり、適切な指導そのものがない。
 第三に、教師に過大な負担をかける点である。最近はほんのわずかな手当てがつくようになったが、逆に手当て故に責任をもたせる意識が強くなり、そのために、かえって、顧問を忌避する教師が増えていると思われる。教師は、何よりも授業を行うのが仕事であって、部活が仕事ではない。部活に熱心になれば、通常授業準備が疎かになるはずだから、いいかげんな授業になる可能性が高いだろう。授業準備をしっかりやろうとすれば、部活は子ども任せになり、事故の危険性が高まる。これは避けられない矛盾だろう。
 第四に、学校に多くの部活が存在するので、練習場の確保が難しく、どうしても、グランドを共用することになる。野球部とテニス部と陸上部が一緒に練習するような事態である。これでは、存分な練習は難しいし、また、危険でもある。
 やはり、日本のようにかなり成熟した社会では、単一のものしか用意されない部活ではなく、多様なレベルものが用意される社会体育に移行すべきである。もちろん、施設が社会にあるわけではないから、学校の施設を使うことになるだろう。
 スポーツを種目ごとに、合理的な段階にわけ、それぞれを要望に応じて、合理的な練習が可能な場所を確保できるように、学校に割り当てる。そして、自分のやりたいスポーツの、あったレベルのクラブに入り、放課後はその学校にいって活動をする。そして、指導は、専門的な資格をもった人が指導をする。当然、適切な手当てを払うべきであろう。部活はほぼ無料であるが、地域クラブと同じだから、低額であれば、会費を徴収してもよいだろう。もちろん、専門的な指導能力をもち、その意思があれば、教師が指導員になってもよい。
 それでは学校対抗という団結心が育たないという不満がでるかも知れない。しかし、同質的な同心円構造のなかで競争が行われることが、以前は日本社会の発展力だったかも知れないが、今やそれは欠点となっているのではないだろうか。同心円的競争社会では、少数の勝者にとってよい社会だが、多数の敗者にとっては、生きづらい社会である。そのなかでいじめの被害者になると、どこにいっても被害者としての立場を引きずらざるをえないが、多様性が認められる社会のなかで、自由に移動できる社会であれば、学校でいじめられても、スポーツ活動のなかでは、のびのびすることができる。そのなかでいじめを克服することもできるかも知れない。そうした社会構造こそが必要となっているのではなかろうか。

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