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zoom RSS 岩手いじめ自殺事件で考えたこと

<<   作成日時 : 2015/07/08 21:10   >>

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 岩手県の中学で、またいじめによる自殺事件が起きた。今回は、かなり詳しく、担任教師との連絡ノートが新聞に掲載されている。たまたま、家庭のほうに戻ってきたときのものなのか。学校側がそう安易に新聞社に、子どものいじめについての記述があるノートを開示するわけもないだろう。(その後のチェックで父親が新聞社に渡したことがわかった。)
 断片的に書かれている連絡ノートでは、明らかにいじめられていること、追い詰められていること、死を考えていることがわかる。担任がそれに対して、励ましのコメントを書いてもいる。
 しかし、校長はいじめがあったどうかわからないと語っているそうだ。「いじめ防止対策推進法」によれば、学校にはかならずいじめ対策の組織を置かねばならないことになっており、また、いじめに関する情報はかならず校長に報告し、いじめ対策の組織で取り組みを行うことが規定されている。そうした法の内容が無視されていたと考えるのが自然だろう。だからといって、法を守らないからこんなことになるのだ、責任をとってもらう必要があるなどということを主張しようと考えているわけではない。私の理解では、このような法律は、元々効力が極めて薄いのだ。文部科学省の道徳教育推進校であった大津の中学で起きたいじめ自殺事件を契機に、(私は「利用した」と言っても差し支えないと考えているが)いじめ対策を法として規定したものが「いじめ防止対策推進法」であったのだが、ここで、文部科学省や教育委員会の権限を規定した。原則的に文部科学省は、都道府県教育委員会に対する「指導助言」権限をもっているだけで、「介入」することができなかった。だから、この際介入することができるようにしたのだが、そもそも、適切に実施すれば、指導助言でも、かなりの効果があるはずであり、わざわざ権限をもって介入する必要など、滅多にないのである。逆に、介入したから、指導助言では解決できない事態を解決することが格段にできるようになるものでもない。その証拠が、今回の岩手の事件だろう。既に法が成立して一年が立つのに、明確に生徒がいじめを訴え、耐えられないことまで担任本人に「文章で」伝えている、更に死ぬ決意まで告げているのに、担任はただ励ましの言葉を書いていただけで(だけでというのは、言い過ぎかも知れないが)、少なくとも校長やいじめ防止の組織に報告してはいなかったようである。もし、伝えているのに、「いじめがあったとは認識していない」と校長が語ったのだとしたら、校長が嘘をついたことになり、それはそれで大問題であろう。
 つまり、法律が決めたから、そのように人々が動くわけではないのだ。人が動くのは、動く必要があると、当人が認識するからである。生徒のノートを見た担任は、死ぬかも知れないと書いているのに、それを本気に受け取らなかったのかも知れないし、あるいは、どうしていいかわからなかったので、とにかく励ますことしか思いつかなかったのかも知れない。
 では何故校長も、また、担任の教師も、また、中学だから、他の教師もそのクラスに入って日常的に授業をしていたはずであるが、その生徒の様子に気付かなかったのだろうか。あるいは、気付いていても動かなかったのだろうか。法律に基づく通達等による指導は、学校に伝えられているはずであるが、それが機能しなかったのだろうか。
 ひとつは、法律側の問題であろう。この法律は、本当にいじめ防止対策を推進するためよりは、学校の管理体制強化をしようという意図のほうが強いと言わざるをえない。この点については、先日にブログで書いた通りであるが、いじめ対策の姿勢が、文部科学省の以前の客観主義による色調が強く、主観主義による丁寧な対応が前提とされているようには読めないのである。その代わり、教育委員会や学校における対策組織の結成や、報告手順等について詳細に規定されている。いじめを本当に救うためというよりは、どうやって組織的に対応するのか、そして、様々なクレームで追求されないための行動をとるか、という意図が強く感じられる。
 一番の問題は何なのか。それは、学校が社会の中で置かれている位置からくる、教育を選別の手段とする機能こそが問題なのである。選別の手段である以上、勝者のための組織であり、いじめを受ける者は当然敗者に分類されるから、学校の機能上、大切な人ではないのである。いくらきれいごとをいっても、学校=選別論にたてばそうなる。だから、学校の選別機能をできるだけ縮小することが必要なのである。
 学生と接していると、こうした学校選別機能の影響は隅々にまで及んでいると感じる。近年流行の論である「スクールカースト論」をすんなり受け入れるのも、そうした実態がある程度あるからであるし、また、それを支えている感性を共有しているからである。その感性は、関係する他人が、自分より上か下かを意識する、あるいは、自分が集団の中でどの位置にあるのか確認したい意識をもっている等々である。
 そして、学生たちは、こうした意識は普遍的なものであると思っている。確かに日本では、一般的であるといってもよい。そうした序列意識から解放されている人は、稀であろう。だが、それは日本の学校や進学システムの影響であり、進学システムが全く異なる原則をもっている国の人々は、そうした上下意識を日本人ほど強くもっていない。あるいは、解放されている人が少なくないといえる。
 何故か。日本の学校の進学は、入学試験で行われ、必ず定員によって切られる。だから、他人との競争である。したがって、偏差値が日本で発明され、普及していることで分かる様に、合否を知るために、どうしても集団における位置を知りたがり、また、他人との上下を意識せざるをえないのである。
 しかし、欧米のように、卒業資格が上級学校の入学試験になっているところでは、卒業試験に合格すればいいので、自分の学力のレベルを、他人との比較ではなく、単純に理解力で判断すればよい。特に厳格に定員で切られるわけではないから、他人と競争するわけでもない。そういう中で生活していれば、上下意識をもつ必要はないし、集団における自分の位置をしる必要もないのである。だから、始めてあった人物に対して、「こついは俺より上だ」とか「下だ」とか探る必要もない。
 さて、教師の側から見れば、こうした競争は、生徒管理に非常に便利である。そして、うまく管理をするためには、勝者との関係を良くし、彼らを把握することが、最も効果的であることはいうまでもない。そうすれば、どうしてもいじめ被害者とは気持ちが離れていく。
 最も善意にこの担任教師の行為を解釈すればこうなる。いろいろと励ましの言葉を返していたわけだから、担任は、おそらく優しい教師だったのだろう。事件以来学校にはきていないと書かれているが。
 では、システムが変わらない限り一切、いじめ対策は無理だということだろうか。もちろん、そうではない。
 ただ、今回の事件は、もっと単純に校長や教師たちの無能力の結果かも知れないとも思う。校長は普段からいじめがないか注意するという意識が欠けていた可能性があるし、また担任は、本当にどうしていいのかわからなかったのかも知れない。
 しかし、やるはずだったアンケート(法で規定されている)をあわてて実施したようだが、記名でのアンケートだという。こうしたアンケートを記名でさせるのは、やはり意図を感じてしまう。訴訟になったときに、生徒が被害者側の証人となって、学校に不利な証言をしないように、予め誰がどういうアンケートを記入したか把握しておきたいというような意図である。もちろん、「正直に書くな」という意味もあるだろう。
 どうしてこうなるのか、更に考える必要がある。報道直後なので、まとまらないがまずは考えたことを書いてみた。

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