教育と社会を考える

アクセスカウンタ

zoom RSS 岩手いじめ自殺事件、再考

<<   作成日時 : 2015/07/24 21:53   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 岩手自殺事件は、報道がおとなしくなっているが、来週には学校の報告書が出るようで、またメディアでは賑やかになるだろう。7月24日の朝日の記事を読むと、学校の報告書はほとんど期待できない内容であると予想できる。第三者委員会の調査なら、もう少しまともになるだろうと期待できるが。朝日の記事は次のようなものだ。
−−−−
 岩手県矢巾(やはば)町で中学2年の村松亮さん(13)が自殺した問題で、村松さんが自殺をほのめかす記述を書いたノートを提出した際、担任は心配して声をかけたものの、その後に具体的な対策を取らなかったことが関係者の話でわかった。学校側は、担任が校長に報告するなどの対応をしなかった点を「判断ミス」と認め、26日に公表する調査報告書に盛り込む方針。
 村松さんは担任に毎日提出していた「生活記録ノート」に6月29日、「もう市(死)ぬ場所はきまってるんですけどね」と書いた。
 関係者によると、学校が担任から聞き取ったところ、これを読んだ後に村松さんに「大丈夫か」などと声をかけ、村松さんは「大丈夫」という意味合いの返事をしたという。
 この応答から担任は「ふだんと変わらない」と判断。「明日からの研修たのしみましょうね」と、7月1日から行う宿泊研修についてコメントを書いた。村松さんは7月5日夜に自殺した。
 学校側は、この担任の対応について「結果からみれば判断ミスと言わざるを得ない」とし、報告書にも盛り込むという。担任は村松さんからの「SOS」に気づけなかったことに、「申し訳なかった」などと話しているという。(斎藤徹)
−−−−
 この事件がおきたとき、担任がひとりで抱え込み、報告がなかったことが特に非難の対象になった。しかし、基本的なコミュニケーションというレベルから考えると、そうした報道や意見には、どうも違和感があった。
 そもそも、人は重大なことを、信頼する人には伝えるが、そうでない人、どうせ伝えてもまともに扱ってくれない人には伝えないものだろう。この事件でみると、M君が自分の意思を伝えていたのは担任のみのようだ。そして、この担任とM君の間では、頻繁に生活ノートを媒介にしてコミュニケーションが成立している。書かれていることだけで、世間は判断し、担任を非難しているが、実際にコミュニケーションが書かれていることだけだとは考えられない。また、もし書かれているような対応だけしか担任が示していなかったら、M君はやがて生活ノートにも書かなくなったろう。しかし、自殺の少し前まで担任に向かって書いている。だから、M君は担任を基本的には信頼していたのだと考えられる。
 担任は校長や学年主任等、管理職に伝えていなかったとされる。それが本当であるかどうかも、実は疑わしいが、もしそうだとしたら、担任は主任や校長を信頼していなかったのだと考えるのが自然である。実際のところ、事件後、いじめについて語った生徒に対して、主任が、余計なことをしゃべるな、と恫喝したと報道されている。おそらく、その主任は、普段からそうした態度だったのだろう。そんな同僚教師に、いじめの報告と相談などするだろうか。校長の対応も、メディアに出ていたことから推測するに、やはり、報告すべきであったのに、担任はする気にならなかったのだろう。あるいは、実際にはしていたかも知れないが、まともに校長が対応しなかったと考える余地もある。
 それから、もうひとつ違和感を感じる点がある。それは生活ノートである。私が知る限り、こうしたノートは、親が通常読むのではないだろうか。この父親はM君が一年生のときにいじめられていたことを知っているように報道されている。そして、当然生活ノートの存在を知っているはずである。一年生のときにいじめられていたにもかかわらず、こうした生活ノートを読まなかったり、あるいは、M君自身に、聞かなかったのだろうか。生活ノートに書かれていたことを、あたかも、自殺後に初めて知ったかのように述べ、知らせなかったことを非難しているが、毎日教師に子どもが書いて伝えるノートがあることを自覚していれば、それで知ったはずである。そんなノートは知らなかったというのでは、あまりに親としての自覚が欠けていると言わざるをえない。被害者の家族であるから、批判することは控えるべきであるとは思うが、少なくとも、担任や学校を非難するときには、自らも落ち度があったということを自覚しているべきではないだろうか。
 この事件の当初の報道で、いつもの通りともいえるが、直接の当事者であった担任が一切メディアに登場しなかったことが、盛んに批判された。しかし、この手のことがおきたときには、組織は必ず「責任者」が対応し、責任者以外は、メディアに話してはいけないと、箝口令が強く出されることが通常である。特に、この担任は学校側によって、絶対にメディアと接触しないようにきつく言われていたはずである。だから、担任が直接語らないことを批判するのは、ピントがずれている。おそらく、担任がメディアに話すことをもっとも恐れたのは、校長や学年主任だろう。朝日新聞の上の記事でわかるように、担任が校長に報告しなかったことが落ち度であったと学校は報告書で書くようだが、1年生のときのいじめを、当時の担任が処理できなかったことを知っている校長が、2年の担任の報告をずっと座して待っていたのだろうか。このようなコミュニケーション欠如があった場合、主要な責任は、上司にあるはずである。上司が報告を求めるべきであろう。
 もうひとつ、重大な違和感は、いじめ防止対策推進法のアンケートをめぐる問題である。メディアでは6月に行ったアンケートの集計をしていなかったことが非難されている。しかし、本当に問題なのは、こうした年3回の義務的アンケートを課すこと自体が、いじめ防止にとって、大きなマイナスになるという点なのである。
 どんな人間でも、年3回も、子どもたちにいじめがないか、あったら記すようにというようなアンケートを実施し、それを集計して、実態を把握し、対応しなければならないなどという事態になったとき、そんなことをまじめにやれるだろうかといえば、まず大多数の人間は、ルーチンワークになってしまうはずである。大学では、受講学生が書く授業評価アンケートを学期の終わりに、すべての授業にたいして実施することになっているが、なにごともまじめに取りくむ学生たちですら、あんなアンケートまじめに書きませんという回答が返ってくるのである。繰り返し行われる大量のアンケート調査など、ほとんどの人間はまじめにやらないのである。そして、義務だから形はやるが、形骸化するので、それではいじめの実態はあきらかにならず、むしろ、いじめがあるのに、アンケートに出てこないからいじめはないという判断になってしまうことも少なくないはずである。
 本当にいじめを発見するためには、まっとうに判断できる者ならば、必要なことは、みんな知っているのである。それは、教師がいじめを認めない姿勢を、子どもたちにきちんと伝えていること、教師と子どもたちの間に信頼関係が成立していること、そして、日常的に、教師と子どもがじっくり話せる時間的余裕があることなどである。それから、いじめを解決しようとする学校全体の姿勢があることである。
 この学校では、確実に、教師間の信頼関係がなかったし、担任は孤立していたのだろう。もちろん、M君のいじめを把握して、それなりの対応をしていたにもかかわらず、自殺を防ぐことがだきなかったのだから、能力的にかなり問題があったと考えざるをえない。しかし、それ以上に学校そして行政の管理態勢に本質的な問題がある。
 いじめは決して、子どもたちの間だけの問題ではない。教師の間にも、教師と管理職、管理職と教育委員会、教育委員会と政府の間にも、いじめのような関係があるといえる。いじめ防止対策推進法は、すべて行政側の対象への「不信感」がもとになっている。だからこそ、委員会を作れ、アンケートを実施せよ、何かあったら報告せよ、という構造になっている。こうした不信感があれば、必ず、管理者は、管理対象者に対して、強圧的に望む。そして、それは組織的ないじめと同じような現象になるのである。M君は、担任が一生懸命対応してくれているが、実際には解決能力が乏しく、そして、決定的なことは、学校の中で孤立していることを知っていたのだろう。いじめで自殺する例をみると、やはり、自分を無条件で支えてくれる人が、まったくいないことを認識せざるをえなくなったとき、自殺を実行してしまうような気がする。
 担任はもっと頑張ってほしかったが、もっと重大なのは、学校のなかに不信感を醸成するような「仕組み」を作り出した行政そのものの過ちである。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
岩手いじめ自殺事件、再考 教育と社会を考える/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる