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zoom RSS いじめ調査についての毎日新聞の記事について

<<   作成日時 : 2016/11/07 17:52   >>

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 毎日新聞11月7日朝刊に、「いじめ把握アンケート有効」という記事が掲載されている。気になる点がある。
 まず「2015年度に全国の学校が認知した約22万件のいじめのほぼ半数は、学校が児童生徒に実施したアンケートをきっかけに把握されていたことが文部科学省が発表した問題行動調査でわかった」と書かれている。
 最初の文章であるが、ここから既に間違った記述になっている。「いじめの半数がアンケートによって」ではなく、実際には、「認知されたいじめの半数」である。文部科学省の統計は、あくまでも認知件数なのであっ、いじめの実数ではない。もちろん、文部科学省が、いじめの実数を把握することは不可能なのだから、認知件数という統計数値をとることは、全く問題ないが、受け取る側が、認知件数を実数であるかのように受け取ってしまうとは、メディアの能力も落ちたものだと感じざるをえない。
 もちろん、実数であるか、認知件数であるかは、認知されないいじめが、どのくらいあるのかという問題に影響する。(もちろん最終的にはわからないのであるが)
 もう少し細かくみよう。いじめの認知のきっかけが、
・アンケート51.4%
・本人からの訴え17.2%
・学級担任が発見11.8%
・被害を受けた児童生徒の保護者からの訴え11.2%
 記事の文章にはでていないが、グラフから他の児童生徒からの情報が3.2%となっている。
 年3回のアンケートで知るというのは、ずいぶんと悠長な話だと思うし、また、アンケートを実施しないとわからないのかという疑問も生じる。それから、私は学生たちに、よく聞くのだが、あのアンケートにちゃんと書いていたのかという問いに対して、いつも真剣に書いていたと答える学生は、ほとんどいないのである。だから、アンケートで認知されたケースは、実はかなりラッキーだった可能性が高く、アンケートで見過ごされているいじめが少なからずあることを予想させるのだ。そして、アンケートの怖いところは、アンケートにいじめが報告されなかったら、いじめはないのだ、という安心感を与えてしまうことだ。アンケートのやりかたは、匿名あるいは実名の方式があるが、実名でのアンケートだとあとで面倒だという気持ちを起こさせるし、匿名なら、いじめがあると書かれていても、実態は掴みにくい。犯人探しというような嫌な行為にでざるをえなくなる可能性もある。
 もうひとつ気になることは、他の児童生徒からの情報というのが、非常に少ないことだ。

 記事のもうひとつの柱は、こうした公的アンケート以外に、アプリを使って通報するような仕組みがあり、昨年は私立高16校が採用し、費用は60万だという。パソコンから、匿名で学校に通報できる仕組みなのだそうだが、これは、アンケートだと筆跡でわかってしまうので、それを避けたい生徒の心理に対応したものだそうだ。しかし、単純に考えても、プリントアウトした紙で提出するような「目安箱」形式なら無料で済むのではないか。
また、別のネット上のいじめに関して、パトロールをするサービスもあるようだ。匿名で閉鎖的なやりとりのLineなども監視対象にできるらしい。インターネットは「追跡社会」であると、ケヴィン・ケリーは述べているが、まさしく、匿名でネットで自由に悪口をいっていると当人たちは思っていても、実は監視されているわけだ。情報教育で非常に欠けているのが、インターネットは匿名社会という、まったく間違った誤解を解くことである。

以上毎日新聞の記事をみたが、非常に気になることは、いじめの解決を匿名状況での行うという方向になっている点である。アンケートでいじめを発見しようとする姿勢そのものが、匿名性に依存しているといえる。しかし、いじめというのは、どんなに隠れてやっても、現実社会でのできごとであって、密かに解決できることではない。また、いくら隠しているといっても、必ず表に現れているサインがある。このサインを見る目か、だんだん麻痺してきているのではないかという危惧を抱かせる調査結果である。あるいは、アンケートをすればいいので、麻痺していてもいいのだと思っているのだろうか。
サインを見逃さないための資質は、実はふたつある。ひとつは、いじめは絶対にいけないことだという「価値観」を強固にもっていることである。教師は誰でもそうだと思うのは間違いで、実は教師がいじめの発生源、あるいは応援していることも、それほど稀ではないのだ。そのような教師は、いじめのサインをまず見逃すだろう。あるいは見ても問題視しないかもしれない。その点では、アンケートは意味がある。実際に子どもの訴えとして、書かれている以上、いじめを解決するべく活動しなければならないと、その教師に強制できるからである。しかし、どこまで真剣にやるかは保障の限りではないが。
二つ目は、普段の様子を、可能な限り詳細にしっかり見ていることである。普段の様子が理解できていなければ、いじめられることで生じるわずかな変化を、敏感に察することはできない。そうした観察力が不可欠である。
アンケートでしか知ることができないのであれば、アンケートは有効なのだろうが、やはり、教師が個々の子どもの日常的な姿をしっかり把握していることから、異変に気づくことが最も大事なことだろう。
しかし、大事なことは、それだけではない。解決能力だ。この解決方式も、次第に匿名的な性格を強めていることが、解決能力そのものを衰退させている原因となっているように思われる。

 いじめは学級内だけで起きるわけではないが、学級内で起きるいじめが、教師にとって、もっとも解決を迫られるいじめだろう。学級かどのように運営されているかによって、いじめが起きるか、起きたときにどのように解決できるか、が大きく左右されるように思う。近年話題の「スクールカースト」を容認し、それを利用して学級運営をしている場合に、いじめが起きても、非常に解決しにくいのではないだろうか。当然、いじめは上位カーストが下位カーストにすることが多いだろう。しかし、スクールカーストを容認している教師は、上位カーストの生徒を利用しているのだから、せいぜい、「あまり派手にやるなよ」と大津でのいじめ事件で担任教師が、いじめ加害者に語ったとされるような言葉を、注意としていうだけかもしれない。これは先の価値観にかかわっていることである。また、スクールカーストは、隠れた秩序だから、解決も密かに行うことになり、解決されたという実感を子どもたちがもつことも少ないのではないだろうか。
 私は学級経営の「理念」は、ハンナ・アレントの「人間の条件」として定式化されていることに尽きると思っている。それは、個々人が、完全に自由にコミュニケーションしている、個々人の差異が認められ、差異が平等に扱われるという二点である。いじめが起きるのは、多くの場合、みんなと違うことが標的になるといわれている。日本社会の同質化傾向が、違うものを排除するわけである。だから、違うことを肯定し、認め合うことが、いじめを起こさない上で有効なのである。クラスのみんなが本当に、それぞれの違うこと、個性を尊重すれば、いじめは論理的には起きないはずである。教師が、全員のそれぞれの違いを、みんなの前で積極的に認めるかは、したがって非常に重要な活動になる。いじめは、当然コミュニケーション不在となる。だからこそ、オープンなコミュニケーションがいじめの予防や解決に大きな力が発揮されるのである。もちろん、隠しておきたいことを、乱暴にオープンにするようなことがあってはならないが、最終的には、大事なことを共有できる集団であるかが、いじめを解決できる学級であるかなのである。
(続く)

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