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zoom RSS 「フローレンス・ジェンキンス 夢見るふたり」を見て

<<   作成日時 : 2016/12/04 22:14   >>

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映画「マダム・フローレンス 夢見る二人」(Flrence Foster Jenkins) を見た。コメディとしてみても、十分に面白く、笑える要素満載であるし、多少変わったラブストーリーとしても、また、ある種の社会批判の映画としてみることもできる。物語は、戦前のニューヨークでクラシック音楽の愛好家と援助者として有名だった実在の人物、フローレンス・ジェンキンスが、音痴だったにもかかわらずカネーギーホールでリサイタルを開いた経過をおったものだ。いまだにその録音がカーネギーホールアーカイブの最大人気なのだそうだ。ジェンキンスの音痴な歌いぶりをメリル・ストリープが見事に演じ、それを支える愛情に満ちた、あるいはこっけいな、そして裏面もある夫、シンクレアをヒュー・グラントが、そして、実際に見事なピアノをきかせるコズメをサイモン・ヘルバーグが演じている。
 この映画で最も素晴らしいと思う要素は、歌とピアノ、あるいはオケの伴奏を、本当に演じている場面での撮影が採用されている点だろうと思う。吹き替えではないし、また、かつてのオペラ映画でよく採用されていた、録音を別にとって、あとで録音にあわせて映像を撮るというようなやり方をしていない。何度ものテイクがあるだろうが、ライブなのだ。実際にストリープが下手くそに歌い、その崩れた歌に、ヘルバーグが,実にうまくあわせながら伴奏をつけるのだが、実にリアリティがある。解説によれば、本当にそういうように演奏し、撮影したのだそうだ。だから、「偽物感」がまったくなく、実際に演奏会を聴いているような感じがするのだ。
 そして、この映画をみて、いろいろなことを考えた。最も考えこんでしまうのは、「ジェンキンスは、音痴であることをまったく気づいていなかった」というのが、本当かということだ。更に、彼女は本当に音痴だったのか、ということも。
 経歴をみると、彼女は小さいころからピアノを習い、かなりの腕前だったようだ。ただ企業家であり弁護士である、大富豪の父がそれを許さず、最初の結婚での不幸な事情もあり、それを断念せざるをえなかった。しかし、終生音楽を愛したし、また、ピアノもある程度弾いたようだ。そして、ニューヨークの音楽家の援助者であったわけだから、一流の音楽家の演奏もたくさん聴いていたわけだ。そういう人物が本当に音痴とは思えないので、試しにユーチューブでコウモリのアデーレのアリアを聴いてみた。映画でもストリープが歌っている。下手さはストリープの方が徹底していると思ったが、私には、ジェンキンスが音痴であるのに、それを自覚せずにいい気持ちになって歌っているようには聞こえなかった。もちろん、ひどい歌だし、音程があっていないところは多々あるが、それは、かなりの歳(映画によれば、70代だ)なので、高い音がでないし、速いパッセージがこなせていないというレベルのように思われた。そもそも、夜の女王のアリアとか、ラクメのアリアとか、アデーレのアリアという、映画で歌われる歌は、きちんと歌えるひとは、世界中にも数えるほどしかいないのだし、しかも、若いときにだけ完全に歌えるのだ。(グルベローバのような存在は例外中の例外だ。)ルチア・ポップは若いときにクレンペラーの指揮で、夜の女王を録音しているが、それ以後、このような歌を歌っていない。
 ジェンキンスの歌を聴けばわかるように、彼女がだせる声域の音は、かなり正確な音程で歌っているのだ。そして、もっと高い音は、ぶら下がるし、更に高い音になると、まったく外れた声で叫んでいるだけになる。出る声域では正確に歌えているのだから、音痴ではない。だから、彼女は、きちんと歌えていないことは、自覚していたと考えるのが自然ではないだろうか。
 映画では、夫のシンクレアが、悪い批評をだしたニューヨークポストを買い占め、夫人の目に入らないようにする。しかし、彼女がトイレにたったときに、すれ違った見ず知らずの人たちが、「新聞の批評なんか気にするな、あなたはコメディアンの才能がある」と話しかけたのをきいて、おかしいと思った彼女が外にでて新聞を買おうとする。もちろん、全部買われていたから、ないのだが、夫がごみ箱に捨てるのをみた店の男がその旨を伝えるので、ごみ箱から新聞をみつけ、ひどい評価を読んでしまう。それで動転した彼女が、ホテルに戻ったところで転倒し、頭を酷くうって入院、間もなく亡くなってしまうという展開になる。だから、映画では、まわりの人たちがおだてているのを、本当に信じ込んでいるという前提で話がつくられている。しかし、本当にそんなことがあるのだろうか。
 あるとすれば、完全に「裸の王様」だ。しかし、あの物語も、王様の心をもっと深く考える材料としてみるべきものだろう。本当に裸で、外を歩いているのに、自分が衣装をきていると、いくらまわりに言われたとしても、そのように信じきってしまうようなことがあるだろうか。「裸の王様」は、王自身ではなく、自分が馬鹿であることを知られないために、服が見えていると嘘をつく臣下たちの「虚栄心」を皮肉っている物語と読めば、リアルな表現として読めるから、王様の「心」は、矛盾があっても仕方ないが、ジェンキンスは実在の人物で、実話であるとすると、やはり、ひとの心のあり方として、より深く分析する必要があるように思われる。
 ジェンキンスは、自分がうまく歌えていないことは十分に理解していたが、とにかく、人生の最後の望みとして、カーネギーホールで歌いたいのだ、お金も自分でだすのだし、みんなに迷惑かけるわけでもない、あんな老人でも楽しく歌うことができるのだと示すだけでも意味がある、そう思って、わがままを通したと解釈することもできる。その場合、嘘をつきつつ、自分を褒めそやす人びとを、覚めた感情でみていたのか、あるいは、哀れみ、軽蔑の感情でみていたのか。
 あるいは、まわりが褒めそやすので、本当に自分がすばらしい歌い手であると信じてしまったのか。しかし、私にはそうは思われないのである。
 この映画は、先にも書いたが、お金持ちを取り巻く人たちの、こっけいさ、裏表のあるいやしさなども描いており、単純なコメディではないし、また、ジェンキンスがショパンの前奏曲を弾こうとするが、左手が動かないのを、コズメが左手で弾く場面があるが、コズメは、ジェンキンスが単なるお遊びではなく、本当に音楽を愛しているだと理解したことを思わせる、とても感動的な場面もある。
 わざわざ酷い音痴風に歌った場面が多数出てくるから、繰り返し見たいとは思わないが、考えたい素材に満ちた映画だと思った。

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