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zoom RSS 教育行政−教師組織−子ども集団、それぞれの基本原則が、同等であること

<<   作成日時 : 2017/02/11 21:34   >>

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 今大学は春休みで、新年度の授業の準備をする時期である。私が大学に就職したころは、この春休みや夏休みが非常に長く、十分に授業の準備や研究をすることができた。しかし、今は夏休みは当時の3分の1程度しかなく、春休みは、期間的にはあまり違わないが、入学試験が多様化して、それだけ監督や判定会議などの義務が増大し、やはり、じっくりと時間をとることが難しくなっている。この時期は学生と同様に休みだなどと思っている教員にとっては、楽しみが減っただけだが、しっかり研究や授業準備をしようと思っている教員にとっては、不満な時期だ。だから、以前は毎年なんとかやっていたテキストの改定作業もなかなか進まない。担当授業科目が多くなったこともある。私は、大学の教師たるもの、必ずテキストを自分で書くべきであるという、我妻栄教授の教え(私の教師でもなんともないが)を律儀に守って、すべての講義科目のテキストを執筆している。もっとも、学生に教科書を売ることは、気が進まないので、PDFファイルにして、ホームページからダウンロードできるようにしている。紙を使わないという利点もある。
 前置きが大分長くなったが、テキスト改定(実際に反映させるかどうかは別として)のためのメモという意味で、春休みの間、できるだけここで書いてみたい。

 今回は、教育行政学のテキストのためのものだ。
 「教育行政当局が、行っていること、教師に行うように指導していること、そして、子どもに指導するように定めていること」、この間に整合性があるかという問題である。現在の日本の教育行政の最大の問題のひとつは、この点の不整合にあると考えている。

 例えば、「アクティブラーニング」である。文部科学省は、次の学習指導要領の改定で、アクティブラーニングの考えを導入することを、既に公表している。中央教育審議会の答申案という形であるが。アクティブラーニングといっても、あまり内容が明確ではないのだが、とにかく近年、教育現場で頻繁に聞く言葉である。これまでの日本の学校教育は、受け身の授業が多かったので、もっと積極的に、考えたり、その考えを発表しあって、互いに深めたり、また、聞いたり、本を読んだりするだけではなく、調査したり、実験したりする、とにかく、「アクティブ」な要素を学習に取り入れるということだろう。このことの「現場」に導入されたときの効果についても、単純ではなく、決して、万々歳、当然だ、ということはできないと考えているが、それよりも、アクティブななかに、考えたり、討論したりすることが、当然含まれるはずである。だから、アクティブラーニングをするために、教師自身も考えたり、討論したり、アクティブに活動しなければならないし、そのことが奨励されなければならない。
 しかし、文部科学省は、文部省時代から一貫しているが、教師が考えたり、自由にものをいったり、討論したりすることを、強く抑圧してきた。現在の職員会議の位置づけをみればよくわかる。職員会議は、現在の省令によれば、補助機関である。つまり、決定は校長が行い、それを執行するのが職員会議、つまり、教師の役割であるとされている。だから、職員会議では、議論などしないのが、原則なのである。東京都教育委員会は、都立の学校では、職員会議で挙手で意見分布をとることすら禁じており、それに反した校長を処分したことすらある。(正確にいえば、退職したときに当然嘱託として雇用されることになっているが、なされなかったということだったが、これは、常識的にみれば、明らかに処分である。)つまり、学校の運営や問題解決に、教師たちが考えたり、議論したりすることを、ほとんど禁じておいて、子どもたちに、考えさせたり、議論させたりすることが、できるのか。もちろん、教師たちは、熱心に取り組んでいるのだから、そうしようとするだろうし、力のある教師たちは、実践できるだろう。しかし、長い目でみれば、極めて不十分な成果しか生み出せないことは間違いない。教師に泳ぐことを禁止して、子どもに泳ぎを教えさせるようなものなのだ。

 最近の教育行政の話題である、文部科学省の官僚たちの天下り問題をみてみよう。近年ますます教育行政では「道徳教育」の重要性を強調しており、次の学習指導要領では、道徳が「教科」となり、検定教科書が作成され、成績がつくことになっている。この点については、かなり多くの教師たちが反対しているにもかかわらず、そんなことは意に介さず、突き進んでいる。
 道徳の内容の柱のひとつに、社会的なルールを守るということがあるだろう。どんな教師だって、社会のルールを守る必要がないなどと、道徳の時間だろうが、その他の教育場面だろうが、決して教えないだろう。
 しかし、文部科学省の天下り斡旋は「違法行為」であり、かつ組織的に長期的に行われているのである。道徳教育の重視を行政的に押し進めているトップの役人が、長年、組織的に、違法行為、つまりルールに反することをやっていたということになる。文部科学省の官僚たちは、どういう顔して、道徳教育の重要性を述べているのか、ぜひ知りたいものだ。
 
 別の例をあげよう。
 「スクールカースト」という言葉が、学校現場では、教師の間にも、また、子どもたちの間にも、けっこう浸透している。また、言葉を知らなくても、そうした実態がかなりあると言われている。学生たちで興味をもって研究する者も少なくない。
 スクールカーストは、いろいろな定義があるようだが、要するに、学級のなかに、ヒエラルヒーが固定的にできていて、通常のピラミッド型に三つのグループにわかれているという。私自身は、人々の関係は、平等で自由なコミュニケーションが可能である状態が理想であり、教師はそうした学級を目指すべきであると考えるので、スクールカースト的状況は作らないこと、既にできているとしたら、それを平等な関係になんとか作り替えることが、教師の役割であると思っている。
 では、何故学級にこのようなカーストができてしまうのか。少なくとも私が学校にいっていたときには、そうしたことは意識されていなかったし、リーダー的存在がいたとしても、カーストのトップにいて、権力的に振る舞うことが、ごく普通の現象だなどという、そんな風潮ではなかった。
 なぜそうなったのかは、いろいろな原因があるだろうが、確実にいえることは、教育行政が、教師集団をカースト的に組織するように、ずっと指導してきたし、また、法的にもそうした体制をとっていることが原因のひとつだということだ。ずっと前のことになるが、教師集団は、単層構造なのか、重層構造なのかという議論が、教育行政学者の間であった。文部省は、一貫して強力に重層構造を作ることを押し進めてきた。校長をトップとして、管理職を増やし、一般の教師は、命令、指導関係で動くような体制を作ってきたのである。正確な法令の規定では、監督・命令と指導・助言を区別し、教育活動には監督・命令の権限を、管理職はもっていないのだが、この区別は感覚的にあいまいにされており、少なくともほとんどの学生は、校長は教育活動にも監督権限があると思い込んでいる。現在の学校教育法にある教職員の種類をみれば、如何に教職員を「階層的」に構成しようとしているか如実にわかる。教師がカースト的に組織されているのだから、それが子どもたちに反映するのは、実に自然なことだ。教師もまた、子どものカーストを肯定し、逆に学級経営で利用しようとしたりするものがでてきても、おかしくない。
 もちろん、文部科学省は、子どもたちの間にカーストがあることを、積極的に肯定したりはしないだろう。カーストこそいじめの原因のひとつであり、更にいじめのひとつの形態いってもいいくらいである。

 以上3つの事例をあげてきたが、要するに、教育行政が、本当に効果的に行われるためには、当然のことながら、教師に期待することと、子どもに期待することに、矛盾がないことが必要であるが、現在の文部科学省の行政、また、教育委員会の行政は、矛盾がないどころか、正反対であることも珍しくないのである。しかもかなり重要な側面で。
 教育行政−教師組織−子ども集団、この三つのそれぞれに基本となっている原則が、同等であることが、基本的に重要なことである。
 

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