教育と社会を考える

アクセスカウンタ

zoom RSS 教育勅語そのものが「違憲」である

<<   作成日時 : 2017/04/09 21:58  

ナイス ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

 道徳が教科となり、検定教科書が使われることなったわけだが、最近検定の模様がニュースとして流れ、そのなかに「パン屋」は日本の伝統にそぐわないという理由で保留になったので、「和菓子屋」に訂正したら通ったという話が話題になった。パン屋さんたちはかんかんに怒っており、和菓子屋さんたちは困惑しているという報道もある。
 ほとんどの人が、このことのばかばかしさに驚いただろう。しかし、ばかばかしいと感じて嘲笑してすむことではない。
 誰でも、「道徳教育は大切だ」と言われれば、よほどの人でない限り、それを否定することはしない。しかし、「道徳教育は大切だ」が、自動的に「学校で道徳を教えることが大切だ」にはならないし、ましてや、「道徳の時間で教えることが大切だ」にもならない。しかし、安倍内閣は一次のときから、道徳教育を極端に重視しており、教育基本法の改定を経て、今回道徳を教科化し、検定教科書を使わせ、成績をつけさせるという政策を実行した。「道徳教育が大切だ」が、「検定教科書を使うことが必要だ」とか、「道徳に関して成績をつけることが必要だ」ということに必然的につながると考える人は、さすがに少ないのではなかろうか。ところが、道徳教育が大切なんだから、それも当然だろうという雰囲気を作り上げ、道徳教科書に検定を実行したのである。
 そしてでてきたパン屋と和菓子屋の話は、実は、非常に象徴的なことなのである。どんな「象徴」かといえば、強制されつつある「道徳教育の中身が極めて浅薄である」ということの象徴である。しかし、道徳教育推進派にとっては、道徳の中身はそれほど重要な要素ではない。それは彼らが好きな教育勅語が、そこで出てくる徳目が重要なのではなく(だからこそ、友、兄弟、親等の尊重というあたりまえのことが出てくるのだが)天皇(権力)が、道徳を媒介として、国民(臣民)をコントロールするのを「受け入れる心情」を形成することが重要なのである。
 徳川幕府の「踏み絵」は、キリスト教徒であることではなく、「踏め」という命令に従うことを試したのであって、命令に従ってマリア像を踏むキリスト教徒であれば、危険視されないのである。幕府にとっては、キリスト教の教義そのものを否定する必要などなかった。現代でいえば、君が代を式典で歌うことを強制する行政もまったく同じである。君が代という歌を愛しているかどうかなど、歌わせる側には関係がない。歌うべきときに歌う、つまり、行政命令に従うことを、求めているのである。君が代を強制した当人である石原元都知事は、自分は君が代なんぞ歌わないと述べたことは、よく知られている。
 このように、実は道徳の内容ではなく、「道徳を押しつける」という形式が重要であるからこそ、パン屋のようなことになるのである。更におそらく、パン屋の和菓子屋に修正させたのは、検定担当者の安倍内閣への「忖度」であろう。

 もうひとつ、「教育勅語」を憲法に反しない形で教えるなら、容認されるというような政府の見解だが、「教育勅語」そのものが「憲法」に反するものであって、憲法に反しない教え方としたら、教育勅語がいかに間違っているか、日本を不幸な状況に追い込んだものであるか、根本的に「道徳のあり方としてあってはならないもの」であることを教えること以外にはない。「教育勅語」は天皇主権を大前提とした、天皇主権のための文書なのだから、国民主権を規定した現行憲法に、根本的に反することは、自明なのである。「親子夫婦友人の尊重」などという道徳は、いかなる道徳でも説く内容で、教育勅語の特質でもなんでもないのである。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
ナイス ナイス

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
教育勅語そのものが「違憲」である 教育と社会を考える/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる