野田市の虐待死事件を考える。「作為義務」を考慮すべき時期だ

 千葉県野田市で小学校4年生の子どもが、父親によって虐待死(とあえて表現する)させられた事件は、本当に暗澹たる気持ちにさせる。多くの問題が重層的に重なっておきたといえる。
 沖縄にいたときから、虐待があり、少女はそれを訴えていたようだが、千葉県に引っ越してきて、学校での「いじめアンケート」に、父親からいじめをうけ、暴力を振るわれていて、なんとかしてほしいと訴えていた。これだけ明確にアンケートに書いて、窮状を訴えているのに、結果的に命を守ることができなかったのは、どのような責任があるのだろうか。考えられる対象をあげてみよう。(責任の大きさの順ではないことを断っておく。)
 まず文部科学省である。このアンケートは、おそらく、文部科学省が定めた年3回のいじめ実態調査であろう。文部科学省は、アンケート等によっていじめを発見したときの「対応」について、いろいろな形で指導している。代表的な文書には、およそ次のような内容が書かれている。
・通報をうけた教師は一人で抱え込まず、対策のための組織に情報を共有する。そして、校長が責任をもって保護者に連絡する。
・学校で子どもを守ることができないときには、直ちに警察署に通報し、援助を求める。
・いじめられた生徒やその保護者への支援
・いじめが起きた集団に、自分たちの問題だととらえさせる。
等である。
 私は、このアンケートが、いじめ解決には対して役に立たず、むしろ解決を遠ざけると思っていたが、今回の事例は、残念なことにそれが事実となってしまった。
 この事件で見る限り、ふたつの欠陥がある指導内容となっている。
 第一に、加害者が親である場合をまったく想定していないことである。これは、児童虐待という「福祉」分野のことだと一般的に理解され、児童福祉施設が対応するものだ、というような感覚があるとしたら、教育という現場を総体として見ていない証拠である。加害者である父親は、学校に対して、アンケートを保護者である自分に見せるように、強行に要求したという。そのときに、学校側は、アンケートの秘密厳守の原則を盾に断った。それに対して、野田市教育委員会は、父親の剣幕に恐れをなし、訴訟恫喝をされて、見せてしまった。教育委員会はそのために、強く非難されている。しかし、見せなかったことが正しく、見せてしまったことが過ちだというのは、100%正しいとはいえない。
 ここで第二の欠陥が出てくるのだが、文部科学省は、子どもを学校だけでは守れないときには、警察の協力をえることを指示している。しかし、今回の事件では、それは実行されたという報道がない。(私の見落としがあったとしたら、訂正するが、逆に、警察に通報があったのだとしたら、警察は一体何をしていたのか、と批判されるだろう。)
 もし、学校と教育委員会と、児童相談所や保護施設が協力して、まず子どもを、親から引き離して確実に保護し、警察に連絡していれば、学校や教育委員会に乗り込んで、恫喝したときに、子どもの指摘はその通りであったことが、証明されるわけだから、子どもへの傷害の疑いで、当然逮捕されてしかるべき事例であった。そして、その際、アンケートは、その犯罪の証拠のひとつとなるものであり、逆に、警察管理の下に、父親に開示すれば、それは証拠を突きつけることになったともいえる。
 いじめアンケートは、「秘密を守る」というような言葉が記されているのだそうだが、それだけでは、情報がどのように扱われるのかあいまいなのである。カウンセラーに個人的に相談すれば、「秘密を守る」は、カウンセラーが、他人には相談内容を伝えないという意味であるが、学校という組織のなかで行われるアンケートは、誰が集計するのか、その結果が、学校の教師の誰に共有されるのか、実は非常にあいまいなのである。もちろん、学校のような場で生じたいじめは、担任教師だけでは解決が難しいことが多い。だから、組織的対応が求められるだろうが、校長はいいとして、いじめ対策の委員は、子どもたちには、構成や対応が理解されるようになっているのだろうか。
 もうひとつの暗澹たる気持ちにさせる原因は、近所の住民の対応である。メディアの報道では、近所の人たちの話として、一週間以上にわたって、子どもの悲鳴が頻繁に聞こえ、父親の怒声、それも「殺してやる」というような怒鳴り声がきかれたという。そういうことを、メディアの記者に語るということ自体、私は理解できないのだが、誰一人として、そのことを警察に通報しなかったのだろうか。
 欧米では、そのような事態が発生すれば、ほぼ確実に地域住民から警察に通報される。欧米では、子どもだけに留守をさせて、親が外出すること自体が、「放置」という虐待と理解されているので、近所から通報されると、私自身が聞かさせる。ベビーシッターを頼む理由とひとつであるという。まして、子どもの悲鳴と、親の「殺してやる」という怒鳴り声だ。誰か一人でも、警察に通報すれば、子どもは死なずに済んだかも知れない。
 これは、「不作為の罪」を規定するか、という問題に関係している。親には、子どもに対する一般的な保護義務があるが、それを一般の人の間でも義務化するかという問題である。
 ある人が、極めて危険な状況におかれており、それをまわりで知った人が、助けることができる場合、少なくとも、助けることで自分が危機に陥るようなことがない限り、可能な「助ける行為」を積極的にする義務があるというものである。実際にそうした「作為義務」を規定している国もあるそうだ。それを怠ると「不作為の罪」を問われることになる。
 日本では一般的に、こうした義務・責任を法定することに消極的である。虐待に対する通報義務も、かなり緩い。また、防止に関わる福祉関係の人たちの権限も弱い。
 しかし、こうした不作為の罪については、あいまいな形ですら、規定されていない段階だろう。児童虐待防止法には、「第六条 児童虐待を受けたと思われる児童を発見した者は、速やかに、これを市町村、都道府県の設置する福祉事務所若しくは児童相談所又は児童委員を介して市町村、都道府県の設置する福祉事務所若しくは児童相談所に通告しなければならない。」という条文があるが、完全に一般的な規定に過ぎず、これで住民が通報義務があると感じることはないだろう。
 さらに、今回の事件は、単なる虐待ではなく、暴行傷害という、明確な犯罪行為である。それが「現行犯」的な察知をしているわけだから、このような場合、近所の人間が通報しなければ、他に通報する者がいないのである。
 私は、日本も危険な状態にある人を援助する「作為義務」を規定する必要があるのではないかと思う。

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