透析中止 生涯を決定する権利はあるか2

 しばらくこの話題を続くのだと思うが、今日(3月8日)の毎日新聞には、当該病院での「問題提起」のようなことが紹介されているので、それを検討しておきたい。
 以下毎日の記事。
 センターの腎臓内科医(55)によると、患者には透析治療とともに「透析しなかったらお亡くなりになります」と説明。非導入が死に直結することを明確に伝えたという。患者の家族から「死ななくて済む方法があるのに、なぜ死を選ぶのか」という疑問が出た場合には、患者本人に家族を説得してもらったという。
 亡くなった女性を担当した外科医(50)と腎臓内科医は、現行の透析治療を「対症療法」と独自に解釈。そのうえで「患者に苦痛を負わせる対症療法を医師が問答無用で押しつけることはできない。透析治療導入後にご家族が後悔することもあり、通り一遍の流れの医療をすべきではない。導入時にどうしたいのか(患者に)確認する時代になってくる」と主張している。(以上)

 この部分が、問題提起であろう。要約すると、
・透析治療は「対症療法」であり、苦痛を負わせる対症療法は、患者の意思によって実施するものだ。
・意思確認のために、導入と非導入の選択肢を示し、非導入は死に直結することを説明する。
・非導入を選択した患者の家族が納得しない場合には、患者本人が説得する。

 こういう問題提起はあってもいいと思う。尤も、「実践」のあとではなく、前のほうがいいと思うが。
 適切な問題提起かどうかについて、私なりの考えを述べる。
 まず、この問題提起は、消極的安楽死の是認であるといえる。東海大学の安楽死事件の判決で、尊厳死・消極的安楽死・積極的安楽死という3つの概念が示された。尊厳死は、延命治療をしないまま、自然死を迎えることを容認することである。人工呼吸器を外せば、そのままなくなることもあるが、自発呼吸が再開されて、長く生きる場合もある。(カレン事件)
 安楽死は、単なる延命治療の放棄ではなく、より確実に死が訪れる措置をとることであり、塩化カリウムなどのような薬物を投与して、短時間の間に死に至らしめるのが積極的安楽死であり、鎮痛剤としてモルヒネを大量に投与することなどによって、数日内に死に至らしめるのが消極的安楽死とされる。
 数年前『文藝春秋』が安楽死問題を特集したときに、日本はまだ安楽死が違法だという単純な前提で特集がくまれていたが、実は、法律では容認されているわけではないが、判例では、違法性が棄却される条件は、かなり固まった論理で示されており、それだけではなく、実は、そうした安楽死容認の条件が示された判決は、国際的に日本が最初にだしていたのである。1962年の山内事件に対する名古屋地裁の判決である。結局、被告人は条件を満たさないので、有罪とされたが、以下の条件を満たせば、容認されるとしたのである。

一 病者が、現代医学の知識と技術からみて不治の病に冒され、しかもその死が目前に迫っていること。
 二 病者の苦痛が甚だしく、何人も真にこれを見るに忍びない程度のものなること。
 三 もっぱら、病者の死苦の緩和の目的でなされたこと。
 四 病者の意識が、なお明瞭であって意思を表明できる場合には本人の真摯な嘱託、または承諾のあること。
 五 医師の手によることを本則とし、これによりえない場合には、医師によりえないと首肯するに足る特別な事情があること。
 六 その方法が倫理的にも妥当なものとして認容しうるものなること。  

 因みに、東海大安楽死事件で示された条件は次の通りである。
一 患者が耐え難い肉体的苦痛に苦しんでいること。
 二 患者はその死期が迫っていること。
 三 患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段 が無いこと。
 四 生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること。

 これに他の医師の診断が加わるとオランダの条件とほぼ同じになる。
 福生病院の提起は、透析をしなければ一週間程度で死に至る、と説明したうえで、患者本人の意思確認をして、文書に残し、実行するのだから、消極的安楽死の提起と考えてよい。
 学会のガイドラインに反するということであるが、ここでは、あくまでも、安楽死容認の人にとっては、ほぼ国際的に共通となっているこの原則に照らして検討してみよう。
 「患者が耐えがたい肉体的苦痛に苦しんでいる」というのは、どうだろうか。
 私自身の親類で、人工透析を長く受けた人がいるが、もちろん、長い時間拘束され、血管を通して、血液を還流させながら、血液中の老廃物を取り除くのだから、苦痛がないとはいえないが、多くの場合には、耐えがたい苦痛とは言い難い。少なくとも、これから透析を始めるという患者にとっては、それまでの治療のなかで、「耐えがたい苦痛によって、安楽死を望むほど」でないことは間違いない。
 透析を続けていくうちに、そのことによる苦痛が耐えがたくなることはあるのだろうが、この病院が選択肢を示した時点では、あてはまらない。
 「患者の死期が迫っている」というのはどうだろうか。これは、死んだ女性に対しても、透析をすれば、4年くらいは生きられるといっていたのだから、死期が迫っているとは到底いえない。
 不治の病かどうかについて。腎不全を治すことができないという意味では、不治の病であることは間違いないのだろうが、移植あるいは透析という可能な治療がある以上、治療法がないという事例にはならない。
 「患者の肉体的苦痛を除去・緩和する方法を尽くし、代替手段がない」という条件は、むしろ逆転している。つまり、透析をやらなければ、一週間くらい生存するとして、その間、尿毒症による苦痛に襲われるとされる。すると、透析しないことが、苦痛を生じさせるわけだから、やはり、原則に反する。
 今回の事件では、担当医だけが関わっているわけではなく、外科医も内科医も関わっているように報道では感じる。だから、他の医者の見解も踏まえて、ということがいえるか。私は、この事例では、同じ考えをもった同じ病院の医師だから、セカンドオピニオンとはいいがたいように思われる。やはり、他の病院の医師の確認が必要だろうと考える。

 患者の意思を確認しながら、治療法を選択していくべきであるというのは、私は正しいと思うのだが、あらかじめ提示する選択肢に、「死の選択」をいれてよいのかどうかは、かなり疑問である。
 また、昨日、日本で、法的に安楽死を容認する制度をつくることには反対である書いたが、その理由を簡単に書いておきたい。
 オランダでは、100%ではないが、原則医療費はかからない。つまり、医療費を心配して、家族に迷惑をかけないために安楽死を選択するということは、ないと考えてよい。あくまでも、自分の残された期間をどう過ごすかという問題での選択となり、そこに、安楽死がある。しかも、昨日書いたように、安楽死選択したからといって、すぐに承認されるわけでもないし、また、医師が引き受けたとしても、実行までには間がある。逆にいえば、安楽死があるから、いざというときには、苦しまずに死ねるという安心感が生まれ、それによって、残りの人生を積極的にいきようという姿勢が生まれる人が多いといわれている。そして、実際には安楽死を約束された患者の80%は自然死しているのである。
 日本は、まだまだ長期の病気になった場合、多くの人は、治療費を心配しなければならない境遇にある。安楽死の制度化には、医療費の無料化が不可欠の条件であると、私は考えている。
 もうひとつの理由は、これは福生病院の医師たちの問題提起と同じであるが、日本ではまだまだインフォームド・コンセントが徹底していないと思うからである。
 インフォームド・コンセントが必要であるという認識と、それをきちんと行う説明能力と態度の訓練が必要であるが、ともに、私には、まだまだ不十分であるように感じられるのである。提起している福生病院で、透析をするか、しないか、しない場合は間もなく死に至る、などといって、選択させるのは、とてもインフォームド・コンセントとは言い難いように思うのである。

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