佐々木朗希登板回避は正しかったか?

 丁度一年前、高校野球最大の話題だった佐々木朗希投手が、県大会の決勝戦での登板を回避するという「事件」が起きて、野球に関心のある人たちのなかで、賛否両論侃々諤々の議論が起きた。その一年後ということで、國保監督へのインタビュー記事が掲載された。(https://www.msn.com/ja-jp/sports/npb/佐々木朗希-衝撃の登板回避-大船渡-國保監督が真相初告白/ar-BB16X1Vt?ocid=spartandhp)私は常々高校野球の反教育性について疑問をもっていたので、ブログでも何度か関連記事を書いた。真夏の暑い時期に、連日の試合をやることは、高校生にとってあまりに過酷であり、身体を壊す危険が非常に高く、何らかの対策をとるべきであることは、かなり広く主張されていた。しかし、高野連はまったく動かなかったわけである。野球の歴史を見れば、甲子園で大活躍した投手が、プロに入って潰れてしまう例はいくらでもある。明らかに投げすぎだろう。
 特に、近年バッティングマシンの改善・普及により、また金属バットの使用により、明らかに打者にとって有利な状況になっており、少ない投手で勝ち進まなければならない高校野球の投手にとっては、本当に過酷な状況である。8回9回に大逆転がおきることが珍しくないが、テレビ中継やスポーツニュースは、最後まで諦めない姿勢が逆転を生んだなどと、褒めあげるが、実際には、投手が疲労しておさえることができなくなっているに過ぎないわけだ。プロ野球なら、リリーフ投手がたくさん用意されているが、高校野球はそうはいかない。だから、特に投手に過度の負担がかかっていた。
 そういう中で、佐々木が「決勝戦」で登板しなかったことは、確かに、大事件だった。サンデーモーニングで張本は、盛んに投げさせるべきだったと主張していたと思う。彼は典型的な根性肯定派だから、当然の発言だったろう。
 しかし、相手は高校生であり、高校野球は「教育の一環」ということになっている。身体を故障させて、どんな教育をするというのか。長年、高校野球の指導者は、教育など眼中になかったのである。しかし、國保監督は違っていたのだろう。高校野球の飛び抜けたエースでも、実はいろいろなタイプがあるのだろう。國保監督からは、佐々木はまだ身体成長の途上にあると見られた。記事によれば、さらにその前段階と解釈していたようだ。体作りを始められる前の段階。つまり、まだまだ身体がどんどん成長しているので、無理に負荷をかければ、ほぼ確実に壊してしまうということだろう。そして、佐々木は、確実に世界の宝となるような選手であるという確信があった。だから、誰にも相談せずに、佐々木を起用しないことに決めた。佐々木や選手に相談すれば、確実に「出たい」「ださせてやってくれ」というだろうと予想したからだそうだ。それはそうだろう。当人からみれば、遠い将来のためよりも、今日の試合に勝つ、そして甲子園に出るということのほうが、ずっとリアルな願望に違いない。しかも、将来の宝は佐々木だけだが、甲子園に出られるのはチームメイト全員だ。佐々木だってみんなのためにと思うだろう。
 非難轟々とおきることは確実ななかで、まったく投げさせない決断をしたということは、本当に勇気のいることだったと思う。そして、それは正しいと思うのだ。高校はあくまでの人生のひとつのプロセスであって、本人の活躍する場は、将来なのである。将来の夢を実現させることが、教師にとっては、最も重要な責任である。
 佐々木の登板回避によって、高野連も投手の投球数制限などを導入しはじめたが、もっと抜本的な改革が必要だと思う。

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