佐村河内氏のゴーストライター問題を考える
佐村河内氏の曲が実は、ゴーストライターが書いたものだというニュースは、びっくりしたが、ある意味、「やはり」という感じがあるのも事実だ。正直疑っていたとはいわないが、何かおかしいとは思っていた。それから、ときどき流れる「交響曲一番」の断片を聴いても、全曲聴く気に離れなかった。だから、まだほとんど聴いていない。NHKのドギュメンタリー番組をみようと思ったことがあるが、それもみなかった。今回、さすがに、見ておこうとNHKオンデマンドを開いてみたところ、既になかった。こういうときこそ、一般ユーザーが検証できるように、残しておくべきではないか。
何かおかしいと思ったのは、こういう人が、あれほど大規模で、長大なオーケストラ曲を書くことが、本当にできるのだろうかという、大変素朴な疑問だった。
べートーヴェンやスメタナのように、聴力を失った偉大な作曲家はいるし、だからこそ、現代のベートーヴェンともてはやされたのだろうが、ベートーヴェンにしても、スメタナにしても、聴力を失ったときには、既に当代を代表する作曲家として完成されていたのである。ベートーヴェンが聴力に異常を感じはじめてから、完全に失われるまでには、ずいぶんと長い時間が経過している。聴力が衰え始めてからも、演奏家としても活動をしばらくの間続けていたのである。第九のときには、完全に聞こえなかったと言われているが、中期までの多くの傑作を書いたときには、完全に聞こえなかったわけではない。
それから、幼少の頃から、音楽一家に育ち、徹底的な音楽教育を受け、更に青年になってから、ハイドンやサリエリのような当代随一の作曲家に、作曲技法を学ぶ機会があったのである。そうした土台があったからこそ、聴力を失っても、作曲を続けることができた。「音」は、脳内で構成・再生できるために可能なことなのだろう。
しかし、紹介されている佐村河内氏は、作曲は独学だという。全く独学で勉強して、大オーケストラの名曲を書いた作曲家がいるだろうか。極めて複雑な和声、対位法の処理、楽器の特性や性能、オーケストラの楽器間のバランスのとり方、等々、本格的な専門家に指導を受けず、しかも、そうしたことを、実際に耳で確認して学ぶプロセスがない人が、大オーケストラの1時間以上かかる曲を創ることは、常識的にはありえないと思っていた。 紹介された限りでは、絶対音感があるから作曲できたのだ、というような話だが、絶対音感があれば、あのような作曲ができるなら、巷には、名曲があふれかえるだろう。作曲に絶対音感は必須の能力だと思うが、しかし、それは作曲に必要な能力や知識、技術のほんの一部に過ぎないはずである。
正直いって、これまで聴く気がおきなかった交響曲一番を、聴いてみたくなった。そして、大傑作だといっていた批評を、自分で判断してみたいと思う。しっかりした人(新垣氏)が作曲したのであれば、本当に傑作であるかも知れない。いままでの多くの人が、涙を流したのは、おそらく、聾の人がつくった曲だということが、少なからず影響しているだろう。これからは、そうした妙な「逸話」抜きに、純粋に音楽として聴いていけばよい。
なお、言われていることが事実であるとしても、私自身は、佐村河内氏を詐欺師のようにいうのは、あまり賛成できない。ふたりの合意で合作してきたというのが、本当のところなのではないかと思うのだが、それをお涙頂戴的なドキュメントにしたてて、「有名」にしたのは、NHKであって、フジコ・ヘミングの場合とよくにている。ベートーヴェンや野口英世を、「苦悩」の故に余計に尊敬するという、日本人的感性に訴えるのだろうが、芸術作品や科学は、そのもの自体の価値によって評価したいものだ、と自ら気を引き締める必要があると思った。
(現時点で、新垣氏の記者会見はみていない)
何かおかしいと思ったのは、こういう人が、あれほど大規模で、長大なオーケストラ曲を書くことが、本当にできるのだろうかという、大変素朴な疑問だった。
べートーヴェンやスメタナのように、聴力を失った偉大な作曲家はいるし、だからこそ、現代のベートーヴェンともてはやされたのだろうが、ベートーヴェンにしても、スメタナにしても、聴力を失ったときには、既に当代を代表する作曲家として完成されていたのである。ベートーヴェンが聴力に異常を感じはじめてから、完全に失われるまでには、ずいぶんと長い時間が経過している。聴力が衰え始めてからも、演奏家としても活動をしばらくの間続けていたのである。第九のときには、完全に聞こえなかったと言われているが、中期までの多くの傑作を書いたときには、完全に聞こえなかったわけではない。
それから、幼少の頃から、音楽一家に育ち、徹底的な音楽教育を受け、更に青年になってから、ハイドンやサリエリのような当代随一の作曲家に、作曲技法を学ぶ機会があったのである。そうした土台があったからこそ、聴力を失っても、作曲を続けることができた。「音」は、脳内で構成・再生できるために可能なことなのだろう。
しかし、紹介されている佐村河内氏は、作曲は独学だという。全く独学で勉強して、大オーケストラの名曲を書いた作曲家がいるだろうか。極めて複雑な和声、対位法の処理、楽器の特性や性能、オーケストラの楽器間のバランスのとり方、等々、本格的な専門家に指導を受けず、しかも、そうしたことを、実際に耳で確認して学ぶプロセスがない人が、大オーケストラの1時間以上かかる曲を創ることは、常識的にはありえないと思っていた。 紹介された限りでは、絶対音感があるから作曲できたのだ、というような話だが、絶対音感があれば、あのような作曲ができるなら、巷には、名曲があふれかえるだろう。作曲に絶対音感は必須の能力だと思うが、しかし、それは作曲に必要な能力や知識、技術のほんの一部に過ぎないはずである。
正直いって、これまで聴く気がおきなかった交響曲一番を、聴いてみたくなった。そして、大傑作だといっていた批評を、自分で判断してみたいと思う。しっかりした人(新垣氏)が作曲したのであれば、本当に傑作であるかも知れない。いままでの多くの人が、涙を流したのは、おそらく、聾の人がつくった曲だということが、少なからず影響しているだろう。これからは、そうした妙な「逸話」抜きに、純粋に音楽として聴いていけばよい。
なお、言われていることが事実であるとしても、私自身は、佐村河内氏を詐欺師のようにいうのは、あまり賛成できない。ふたりの合意で合作してきたというのが、本当のところなのではないかと思うのだが、それをお涙頂戴的なドキュメントにしたてて、「有名」にしたのは、NHKであって、フジコ・ヘミングの場合とよくにている。ベートーヴェンや野口英世を、「苦悩」の故に余計に尊敬するという、日本人的感性に訴えるのだろうが、芸術作品や科学は、そのもの自体の価値によって評価したいものだ、と自ら気を引き締める必要があると思った。
(現時点で、新垣氏の記者会見はみていない)
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