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zoom RSS 佐貫浩『教育基本法「改正」に抗して』を読む(1)

<<   作成日時 : 2006/07/11 11:01   >>

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 法政大学教授の佐貫浩氏の新著『教育基本法「改正」に抗して』(花伝社)が出された。佐貫氏は今もっとも精力的に教育政策批判の執筆活動をしている一人といってよい。現在の教育政策はファシズムへの道の先兵的な役割を果たしており、佐貫氏の批判は大いに勇気づけられる。
 しかし、多くの点で共感できるけれども一点において、私はずっと前から佐貫氏の議論に賛成できないところがある。それは「学校選択」をめぐる評価である。佐貫氏に限らず、多くの学校選択批判論者はひとつには単なる勉強不足、ひとつには余りに短絡的な評価、そして、あまりに「原理原則を無視」していると思う。そういう中で佐貫氏は、少しずつそうした弱点から抜け出ているようにも思うが、どうしてもその立場上の制約なのだろうか、今回の著作においてもそうした欠点を克服できていない。これは、単に論理的な問題ではなく、実際の教育制度を構築していく上での大きな弱点となる。その点を少し書いてみよう。
 「参加と選択、そして評価」という部分で氏は以下のように書く。

 「選択という『評価』形式は、公教育を組織する上で、次のような問題点をもっている。 第一に、それは市場というものと一体になった評価である。そのことは、先にパフォーマンス評価の性格についてみてきたような問題性が、ドッキングされるということを意味する。そこでは、例えば国家による学力テストによって、国家的な教育改革目標への到達度が数値化されるような形で、国家的なコントロールが及ぼされ、親の選択自体が一定の方向付けの下で行われるものとなる。」

 もし以下のように、この文章を私が書き換えたら、佐貫氏はなんと答えるだろうか。

 「選挙という『評価』形式は、民主政治を組織する上で、次のような問題点をもっている。
 第一に、それは市場というものと一体になった評価である。そのことは、先にパフォーマンス評価の性格についてみてきたような問題性が、ドッキングされるということを意味する。そこでは、例えば国家的な政策を支えるジャーナリズムによる世論調査によって、国家的な政治改革目標への到達度が数値化されるような形で、国家的なコントロールが及ぼされ、国民の選挙自体が一定の方向付けの下で行われるものとなる。」

 おそらく佐貫氏は私の書き換え文章を否定できないだろう。とするならば、氏は「選挙制度」そのものを否定するのだろうか。あるいは、いや選挙では国家にコントロールされるような選挙は行われていないとでも主張するのだろうか。昨年の総選挙を見れば、国家にコントロールされた選挙であったことは明々白々だろう。

 最初の氏の文章そのものを検討してみよう。
 学校選択が「市場と一体になった」ものだというのは、どういう意味なのだろうか。もちろん、新自由主義の立場から学校選択が提案されてきたことは事実である。しかし、だから、親たちがみな、新自由主義的な観点、あるいは市場的観点から子どもの学校を選択しているということになるのだろうか。あるいは、それを望んでいる親がいるとしたら、それは何故いけないのか。例えば、氏は学力テストで高い点をとった学校に人気が集まるということを批判的に、いろいろなところで述べている。しかし、そのことの意味するものは単純ではないはずである。
 学力の高い学校を選択するというのは、そこではしっかり勉強を教えていると期待できるから、親の希望が多いことはごくごく当然のことだろう。それを批判的に論じること自体、私にはあまり共感できないところだが、おそらく氏のいいたいことはそれが差別的な教育統制の結果であるということなのだろう。
 しかし、高い学力水準を示した学校に人気が集まったとしても、それがすぐに競争的差別になるとは限らない。なぜなら、高い学力水準の学校に、低い学力の子どもが応募することはできるし、それが入学試験等で入学できない結果になることはないからである。低い学力の子どもたちがぜひ学力を高めたいと思って、高い学力水準の学校を希望すれば、そこで平準化が起きるはずである。制度そのものはそうした可能性を十分にもっている。人気校への集中が差別化になると思うなら、平準化のための運動でもって対抗するということはいくらでもできる。何故やらないのか。
 また、いくら人気校に集中するといっても、そうでない学校を選択する子どもや親も確実に存在する。そうした人々はどのような願いをもっているのか。氏や同じ立場の人たちからは、そうした人々がもっている願いについて語られることがほとんどない。人気が高い学校があるからといって、そこに住民の9割が希望を出すなどということは起こったことがないのだ。むしろ、住民の願いは多様だという事実が示されており、その多様性について、氏はどう考えるのか、逆に問われているはずである。

 第二の理由として以下のように書いている。

 「第二に、市場的に操作された状況のなかで形成された教育要求でもって、親・住民の側の評価基準が形成される。参加においては、親・住民の要求と教師の専門性とが結びあわされるなかで、教育計画が討論を経て発展的に形成される。また我が子の教育への具体的な対処を話し合うなかで、より具体的で全体的な教育価値の必要が自覚され、学校の営みの全体性が親・住民の側にも把握される。」

 ここでは参加が非常に高く評価されている。しかし、私にはよく理解できない。「選択」の場合には、国家にコントロールされるだけの親が、参加となるとどうしてより具体的で全体的な教育価値の必要が自覚されるような賢い親になるのか。選択は単なる情報に踊られるが、参加は学校に出かけ、様々なレベルで教師と協力することで賢くなるという筋道がたっているのかも知れない。しかし、参加というのは、新しいシステムだろうか。
 日本の多くの学校に、PTAという組織がある。これは明らかに戦後50年以上に渡って続いてきた親の参加システムだ。そしてTは教師のことだから、親と教師の協力組織なのだ。PTAはだめだが、佐貫氏たちが主張している参加システムならいいというのは、あまり説得力を感じない。もし、「参加」というシステムが親を成長させるのならば、PTAという組織で十分に成長しているはずであるし、そうした成長した親は「選択」を十分に国家のコントロールから自由に判断できるはずである。
 いや参加にも様々な形態があり、親を成長させる参加とそうでない参加があると主張するならば、「選択」にも、様々な選択がありうるはずである。参加には多様性を認めるが、選択には認めないというのは、あまりにバイアスがかかっている。
 PTAに親は積極的になっていたか、PTAは親の願いを十分に実現してきたか、もしそうでないとしたら、何故なのか、そうした検討なしに、参加を単純に肯定するとしたら、参加の実態を無視していることになる。(つづく)

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