教育と社会を考える

アクセスカウンタ

zoom RSS 教育再生か教育撲滅か(2)

<<   作成日時 : 2007/01/05 15:46   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 大分長い間予告のみで本番を始めることができなかったが、休みを利用して始めることにしよう。この間「教育基本法」の改正案が可決してしまった。従ってこれからどう教育が進んでいくのかを考える必要がある。
 まず最初に考えておくべきこととして、「戦後の清算」という「言葉」である。「教育基本法」の改定が戦後の清算であると言われているが、実際のところ、「教育基本法」が戦後教育改革の実態をこれまで持続させてきたわけではない。もちろん、教育基本法がこれまで有効な法律として存在してきたわけだから、「戦後」改革が継続してきたと言えないこともないが、それは実際にはあわない。実際に制度の実態を形成している法律群はほとんどが「戦後改革」からは変質している。
 特に、「戦後」の教育がいじめやそれを解決することに無能であることを暴露した教育委員会や学校管理のあり方などを規定していると言われていることについて、このことはとくに重要な意味をもっている。

 教育における「戦後改革」とは何だったのかをまずは確認しておこう。
 まずは「教育」が国民の三大義務であったことから、「国民の権利」なったことだろう。このことの意味は大きい。しかし、これはふたつの面から考えなければならない。ひとつは、確かに教育が権利となったことによって、大きな改善がなされた。特に障害をもった人たちへの教育は局面が変わったといえる。障害者への国家の義務免除がなくなったからである。しかし、このことは、戦後改革によってなされたのではなく、また、戦後改革への反動としての改変によってなされたのでもなく、1970年代、つまり、60年代の政治の季節のあとになって実現したことは確認しておく必要がある。
 他方、1941年体制と言われる「国民学校令」の内容が、「学校教育法」に色濃くさまざまな要素が残ったとされるように、教育基本法を具体化する法であった学校教育法は憲法・教育基本法的原則には必ずしも適合していたわけではなかった点である。新制中学と義務9年制への移行についても、既に1941年体制でほぼ固まっていた政策(ただし義務は8年の予定だった)だったことは、よく知られている。
 つまり、戦後改革は必ずしも憲法・教育基本法の理念に忠実だったわけではないのである。

 さて、新制中学、新制高校、新制大学などは大きな改革だったといえる。この点はいまだに継続しているが、しかしそれにも関わらずこの「制度」は変質をしていた。短大や高等専門学校の新設、そして近年であるが、中等教育学校などの新設がある。中等教育学校は公立学校であるが、私立では既に戦後まもなくから実質的には存在していたと言うべきだろう。

 教育行政については、教育行政改革の三大原則とされるものがある。地方分権、民衆統制、教育行政の独立である。これを具体化したものが「教育委員会」であった。
 教育基本法改正論議や教育再生会議などで、教育委員会のシステムそのものを廃止しようなどという議論があるが、戦後改革における教育委員会とは何だったのかを知らずして議論する人たちが多いように見える。だから、戦後改革時の教育委員会については、よく理解しておく必要がある。

 戦前の地方教育行政は文部省によって担われていたのではなく、地方教育行政の主体であった学務委員会は内務省管轄であり、知事等首長は内務省の官僚が派遣されていた。内務省の重要な役割は「警察」であったから、警察と教育は同じ行政主体によって統括されていたことになる。このことが戦前の軍国主義教育を支えていたことは間違いない。
 戦後改革原則の「地方分権」とはこうした内務省の中央統制の教育行政ではなく、地方自治体が教育行政を行うという意味で画期的なものだった。
 地方教育行政を担う主体として、アメリカで発展した「教育委員会」制度が導入された。そして、教育委員は選挙で選ばれた。それが民衆統制ということである。そして、民衆統制は、専門家による行政と組み合わされたシステムだった。教育委員会は、審議決定機関であるが、補助機関としての事務機構をもっている。そのこと自体は今でも変わりはない。審議決定のための「委員」が選挙での選出であるが、執行機関としての教育委員会事務機構の長である「教育長」は専門家であることが想定され、そのための「免許」が求められた。そのために旧帝国大学の教育学部に、教育長免許のためのコースが設置された。
 こうして素人統制と専門家の運営という分担関係が設定されたのだが、このふたつはそのままでは機能しなかった。免許をもった専門家が育つ前にこのシステム自体が廃止されてしまったからである。
 教育行政の独立とは、教育委員会が一般行政(戦前は内務行政)から独立して、独自の審議決定機関としての教育委員会として設置されただけではなく、教育委員会は独自の予算案を議会に提出する権限を与えられていたという意味で、大きな独立権限をもっていたのである。このことが合理的であったかどうかは検討すべき余地があるが、こうした原則が教育行政を活性化したことは間違いない。
 2度行われた教育委員の選挙はかなり政治的になったと言われているが、それは市民の意識を高めるためにはマイナスであったとは言い切れない。

 とにかく、こうした行政の新しいあり方は、1956年に教育委員会法が廃止され、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」が制定され、公選制教育委員会も廃止されたことで、完全に否定されることになった。名前は同じ教育委員会でも、「戦後」の教育委員会と今の教育委員会は全く異なるものになった。
 
 戦後改革の最も大きなもののひとつは、「学習指導要領」の制定であった。戦前は、教育内容は「国定教科書」によって具体化され、全国で一種類の教科書が使用され、細かい部分まで国家が規定していた。しかし、戦後「学習指導要領」という参考文書が作成され、各学校や地方でそれを参考にしながら独自に教育内容を形成していくように指導されることになった。教科書は国定から検定になり、学習指導要領はその際の緩やかな基準となった。しかし、1958年、つまり地方教育行政が根本的に変化した翌々年、早くも学習指導要領は「参考文書」ではなく、「法的拘束力」をもつと文部省によって主張されるようになり、また、戦前の教育の主柱であるとして批判・廃止された「修身」にかわって、「道徳」が教科として新設された。以後道徳の教材が作成され、「こころのノート」なるものが配布され、評価の対象にならないはずの道徳が、通知表で、「道徳」の教科ではないが事実上、さまざまな項目で評価の対象となっている。

 以上見たように、「戦後体制」なるものは、教育の実際としてはほとんど残っておらず、仕組みは戦後まもなく改変されていたことがわかる。従って、戦後改革=教育基本法に現在の教育の閉塞状況の要因を求めるのは全く間違っている。

 このことを確認した上で現在の教育改革論議を検討していこう。


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
教育再生か教育撲滅か(2) 教育と社会を考える/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる