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zoom RSS 「移民・教育・社会変動」を読む。しかし、あまりに翻訳が・・・

<<   作成日時 : 2008/04/08 23:27   >>

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 『移民・教育・社会変動−ヨーロッパとオーストラリアの移民問題と教育政策』ルヒテンベルク編・山内乾史監訳(明石書店)を読んでいる。まだ読了していないのだが、あまりにこれでは、と感じたので、躊躇したが書いてみる。
 現在のヨーロッパは、移民問題がかなり大きな争点となっている。もともと移民の国であるアメリカ、カナダ、オーストラリアとは異なる移民問題の様相があり、政治・経済・教育・社会、さまざまな領域で問題が生じ、紛争の原因にもなっている。この本はそうした問題をさまざまなヨーロッパの国に則して、また比較しながら論じたもので、とてもいい本であることを感じさせる。しかし、そう「断言」できないものがある。それは「翻訳」だ。最近こんな翻訳の本を読んだことがない。10分くらい読み進めると、あまりに酷い日本語に読むのが嫌になり、少し休まないと読み続ける元気がでないのだ。料金をとって売る本を出す以上、基本的な「言葉」の吟味がなされている必要があるのではないか。まして、こうした社会的に重要な問題を扱っている本の翻訳では、原作がいいとしても、原作の評価を低めてしまいかねない。もっと責任をもつべきではないだろうか。
 いくらでも例があげられるのだが、少しだけあげておこう。
 まず言いたいことは何となくわかるが、そもそも表現としておかしくないか、という事例である。
 
 「多文化教育には様々な定義があるにもかかわらず、合意が存在するいくつかの争点がある。」(34ページ)
 
 「争点」というのは、「合意」がない場合にいうのではないのか。「合意」があればそれは「争点」ではない。おそらく、何をもって多文化教育というのか、多文化教育はどうあるべきか、という点については、いくつもの争点があるのだが、その点については、長い年月の実践から「合意」も形成されてきている部分もある、というような意味なのだろう。おそらく、原文は関係代名詞で結ばれた文章で、主節と修飾節の自制の関係が、正しく日本語になっていないために、こうした矛盾した表現になるのだろう。
 
 次の例は意味不明である。移民の世代と言語の問題を議論している部分の文章である。
 
 「より複雑な移住パターンを考慮して研究がなされるべきであり、トランスナショナルな移住においては移民の世代を定義することはほとんど不可能なので、第三世代の移民は彼ら/彼女らのもともとの言語をあきらめるだろうという想定はもはや許さない。(42ページ」
 
 この文章は何度読んでも意味がわからない。このような翻訳が随所に現れるのである。
 
 もうひとつのパターンは、原語を日本語に直すことが難しい場合には、何の注釈もなく、原語そのままカタカナで表記することである。しかし、それは少なくとも日本において、意味の固まった言葉ではないので、何をいってるのかわからないことが多い。カタカナ語でも、例えば「コンピューター」という言葉は意味が固まっているから、注釈が必要だという人はいないだろう。しかし、ディスコース コンテナ ワイルドカード等々はそうは思えない。。例えば
 
 「一般的に言って、特にトルコ人の移民の間では、(家族の)出身国に帰ることは、日常の移民のディスコースの主要なテーマである。(略)彼によれば、移民が排除の経験に直面した時、帰国という言葉が、少なくとも精神的には「ワイルドカード」として使われる。」
 
 確かにディスコースとか、ワイルドカードという言葉は、日本語の中で使用されることがあるが、しかし、それは通常の「教育」の場面や「移民問題」の場面ではない。それに辞書的な意味をここに当てはめても、この文章の意味は私には理解できない。とすれば、やはり、適切な日本語に置き換えるか、注釈をいれるべきだろう。
 一方、「国家コンテナ」という言葉には、原注が在るらしく、説明がある。明確ではないのだが、どうもこれは、原注の「地理的領域を包含する限定された空間は(領土あるいは場所)、社会的に圧縮されたひとつの、唯一の空間(例えば共同体、あるいは国家社会)」ということらしいが、「社会的・地理的空間の一致のため、空間についての、国家社会を境界づける国民国家についてのよく知られている「コンテナ概念」は「社会的」と「空間」を扱うのに、満足のいくものであり、十分であった」と最後に書かれているが、そんなによく知られているのだろうか。広辞苑には出ていないようだし、また、インターネットで検索しても、建築学の世界の言葉として「コンテナ概念」はあるが、政治学や社会科学の概念としては、見つけることはできなかった。やはり、日本の政治学等では、違う言葉で使用されているのだろう。
 
 つまり、概念をしっかりと把握できていないから、適切な日本語に置き換えることができない、だから、そのまま原語を苦し紛れに使ってしまう。そういう事例ではないだろうか。そういうときには、あくまでも他領域の言葉をきちんと調べて、適切な訳語を選択するか、あるいは、言葉の説明を注釈でいれる努力をすべきだ。この翻訳は、まったくそうした努力の跡が見られない。
 
 このような酷い訳ができてしまった原因のひとつは、原著の使用言語の問題があるのだろう。多くの著者がドイツ人であり、編者もドイツ人だ。だから、おそらく原著はドイツ語で書かれていたのではないかと思う。ところが、この本は、英語の本から訳されている。可能性はふたつある。ひとつは、英訳本から訳したということ。他のひとつは、もともと英語で書かれたが、ドイツ人たちの英語なので、ドイツ語っぽい英語で、しかも、英語としてこなれておらず、意味がとりにくいところがあった。
 もし前者なら、英訳本から訳したということが、とんでもない問題だろう。ごくごくマイナーな言語が原著ならともかく、ドイツ語はメジャー言語であり、ドイツ語が読めないから英訳を使ったというのは、問題外だろう。
 もし後者なら、ある種同情の余地がある。しかし、その場合でも、原著も近著なのだから、作者に連絡をとって、意味がよくわからないところは、確認すべきだろう。ネイティブの英語の人にまず確認し、そもそも英文が悪いのでわからないというところは、著者たちに確認すべきなのだ。もともとの文章があいまいなら、翻訳もあいまいでいいということはない。
 
 せっかくの良著を紹介するのに、こんな訳では、理解されない。この訳者たちは、改良バージョンをだすべきだし、そうしないと出版社にとっても不名誉ではないか。

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コメント(41件)

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wakei氏の『移民・教育・社会変動』の論評を拝読した。しかし、あまりにもお粗末で原著者や訳者に失礼極まりない論評であり、かつ看過できない問題をはらんでいるので、コメントする。なお、私はドイツ移民政策の研究者であり、訳者とは一面識もない。ただ、ルヒテンベルク氏は研究テーマの関係上、旧知の仲であり、ルヒテンベルク氏の名誉にもかかわることであるので、「あまりにこれでは、と感じたので、躊躇したが書いてみる」。いいたいことは三つある。ひとつは論評の儀礼を尽くしていないということ、ひとつは的外れな論評のオンパレードだということ、ひとつはこのような論評を書く資格がwakei氏にあるのかというモラルの問題である。
 なお、私は原著も読み訳書も読み、原著は英文としてやや硬いが正確であり、訳文も硬いが正確であると考える。もちろん、いくつかの誤植、誤変換、不適訳はある。しかし文意を取り違えたり、「何度読んでも意味がわからない」というような問題はないと考えている。平均点というところか。
裏秀雄1
2008/04/19 20:09
まず、儀礼の問題である。「まだ読了していない」のに論評するとは、そもそも失礼であり、本書のような複数の原著者、複数の訳者がかかわる本ではそうであろう。wakei氏は「このような酷い訳ができてしまった原因のひとつは、原著の使用言語の問題があるのだろう。多くの著者がドイツ人であり、編者もドイツ人だ。だから、おそらく原著はドイツ語で書かれていたのではないかと思う。ところが、この本は、英語の本から訳されている。可能性はふたつある。ひとつは、英訳本から訳したということ。他のひとつは、もともと英語で書かれたが、ドイツ人たちの英語なので、ドイツ語っぽい英語で、しかも、英語としてこなれておらず、意味がとりにくいところがあった。もし前者なら、英訳本から訳したということが、とんでもない問題だろう。」と重訳であれば手抜きで、「問題外」と断ずる。しかし、本を読了もせず論評するのは「問題外」ではないのか。
裏秀雄2
2008/04/19 20:11
wakei氏は「このような酷い訳ができてしまった原因のひとつは、原著の使用言語の問題があるのだろう。多くの著者がドイツ人であり、編者もドイツ人だ。だから、おそらく原著はドイツ語で書かれていたのではないかと思う」といい加減な推測を述べる。しかし、原著は英語で書かれており(私はルヒテンベルクしに確認した)、著者12人中ドイツ人は3人(ルヒテンベルク氏、マニッツ氏、プライズ氏)である。「多くの著者がドイツ人」だというのは誤りないしは不適切ではないのか。原著が何語で書かれたのかは少し調べればすぐわかるし、著者の国籍や母語は訳書にも書いてある経歴で判断できる。その程度の手間も惜しんで論評するのは、あまりに著者、訳者に失礼であろう。ダブルスタンダードの典型である。
c
裏秀雄3
2008/04/19 20:12
同じことが次の箇所にも言える。「より複雑な移住パターンを考慮して研究がなされるべきであり、トランスナショナルな移住においては移民の世代を定義することはほとんど不可能なので、第三世代の移民は彼ら/彼女らのもともとの言語をあきらめるだろうという想定はもはや許さない。(42ページ)」をwakei氏「この文章は何度読んでも意味がわからない」と正直に告白している。しかし、移民政策を研究している者からすれば常識であり、一読して意味を取れるはずである。移民の世代と言語には関係があり、第一世代は母国で母国語で教育を受けている、第二世代は母国語で親との会話をするが、学校教育については(はじめから、ないしは途中から)移住先の言語で教育を受けている。第三世代は移住先で育った親に育てられ、移住先の学校で移住先の言語で教育を受け、母国語への執着や愛着は薄い。したがって移民も第三世代になると同化が進み、母国語への執着が薄くなるという、移民に関心がある人なら誰でも知っている通説がある。
裏秀雄4
2008/04/19 20:13
これはあくまで、通説であり吟味される必要はある。しかし原文ならびに訳文が言っているのは、この通説を下敷きにして、トランスナショナルな移住形態が世代の(母国語との距離の関連性の)定義を難しくし、第三世代は同化が進んで母国語の習得・維持に執着しないだろうという通説は通用しないということである。「教育と移住の領域の上級の学生、研究者、および多文化教育に関するディスコースに関心を寄せる人々」に向けて本書はかかれたものであるから、この文章に訳注をつける必要もなければ訳文を補足する必要もない。読者にはそれだけの素養が求められているのである。移民問題に関心を寄せる人間にはあたりまえのことであるからである。wakei氏は素養を欠いているのである。この文章を何度読んでもわからないというのは、本書の読者たる資格がないということだ。
裏秀雄5
2008/04/19 20:15
最後にカタカナ言葉について書いている。これは一部私も同意する。ただ社会科学の用語としてディスコースという言葉は定着している。『社会学評論』『教育社会学研究』にはディスコースを表題に使った論文も少なからず見受けられる。単行本でもディスコースやディスクルスという言葉を使った社会科学の用語として使った書籍が存在する。言説という訳語はあるが、この言葉にすればwakei氏は満足するのか、そうではないだろう。ディスコースで差し支えはない。「確かにディスコースとか、ワイルドカードという言葉は、日本語の中で使用されることがあるが、しかし、それは通常の「教育」の場面や「移民問題」の場面ではない」とwakei氏は述べるが、それはwakei氏の不勉強であろう。社会科学的なアプローチで移民問題は論じられることが多く、社会科学の用語としてディスコースは定着しており、これが使われていることに何の問題もない。
裏秀雄6
2008/04/19 20:16
またワイルドカードは確かに社会科学の用語ではない。しかし訳注をつける必要などない。これは鍵括弧つきでつかわれている言葉で、おそらくは日常生活で使われているワイルドカードという言葉を比喩として転用しているのであろう。日常用語を鍵括弧つきで用いていることをwakei氏は見落としている。鍵括弧つきの言葉が学術論文の中でどのような意味をもつのかは、学術論文を読んだり書いたりする人間なら最初期に訓練を受けるであろう。wakei氏は訓練が不足していたようだ。ここでも本書を論評する資格が疑われる。ちなみに日常用語としてのワイルドカードなら小学生でも知っている。以上、論評のごく一部を除いてほとんど的外れで、論評の体をなしていない。wakei氏はルヒテンベルク氏が想定する読者ではないのであろう。このように書いたらwakei氏はほかにもこんな誤訳がありますとほかの例を挙げてくるだろう。しかし、その大方はwakei氏が本書を読む素養を欠くということに起因するものであり、私からのさらなるリプライはしない。自分の不勉強、不見識を満天下にさらしたいなら自由にやってもらいたい。
裏秀雄7
2008/04/19 20:17
最後に資格というかモラルの問題を述べたい。先にも引用したように「このような酷い訳ができてしまった原因のひとつは、原著の使用言語の問題があるのだろう。多くの著者がドイツ人であり、編者もドイツ人だ。だから、おそらく原著はドイツ語で書かれていたのではないかと思う。ところが、この本は、英語の本から訳されている。可能性はふたつある。ひとつは、英訳本から訳したということ。他のひとつは、もともと英語で書かれたが、ドイツ人たちの英語なので、ドイツ語っぽい英語で、しかも、英語としてこなれておらず、意味がとりにくいところがあった。」云々というくだりである。
裏秀雄8
2008/04/19 20:19
そして「もし後者なら、ある種同情の余地がある。」つまり、ドイツ人の書いた英語→英語圏のネイティブの英語よりお粗末→訳文が変になったということである。しかしこのような不見識なことを「可能性」と断っているとはいえ、よく書けるものである。「○○人だから××」というのは人種的偏見の定式ではないか。ちなみに畏友ルヒテンベルク氏は英語圏滞在経験も長く、英語論文も多く、私の見るところ、正確な英語である。ルヒテンベルク氏やプライズ氏、マニッツ氏の英文に変なところがあるというのなら、一箇所でも指摘してもらいたい。おそらく予断と偏見で「ドイツ人の英語だから○○」とみているのであろう。人間性を疑う。wakei氏のこの『移民・教育・社会変動』に関する文章は即刻hpから削除されるべきである。「ヨーロッパの教育制度を研究していますが、新自由主義ではない「教育の自由」を復権させるべくライフワークに奮闘中です。」などと書いているが、このような人権感覚でどんな研究をしているのか。教育者で、教育を研究している人物とは思えない。
裏秀雄9
2008/04/19 20:20
本書『移民・教育・社会変動』は、多文化強制社会の実現にむけて人種差別や偏見に対して強い異議を唱えている。その本の論評をしようとする人物の人権感覚としてこの記述は大いに問題がある。このような人権感覚の人物が論評すべき書物ではない。即刻削除されたい。さもなくば、畏友ルヒテンベルク氏と相談して、ラウトレッジ社、山内氏、明石書店と対応を検討することにする。
wakei氏は論評のマナーもなっておらず、論評の中身も陳腐極まりなくで、しかも人権感覚上問題がある。それが結論である。wakei氏からリプライがあっても私はこれ以上返答しない。誠意ある対応だけを待っている。
裏秀雄10
2008/04/19 20:21
まず「多文化教育には様々な定義があるにもかかわらず、合意が存在するいくつかの争点がある。」(34ページ)という訳文を「 「争点」というのは、「合意」がない場合にいうのではないのか。「合意」があればそれは「争点」ではない。」と断んじている。これは誤りである。移民政策は非常に複雑で単純に争点と合意に分かれない。争点のある合意と合意のある争点に満ち満ちている。合意のない争点は多い。争点のない合意はほとんどない。その意味で原文も訳文も間違いではない。では、この矛盾する表現はいったい何か。ようは政策や政治は矛盾するものがうねりながらひとつのものになっていくプロセスなのであり、合意が争点であり、争点が合意になるのである。社会科学のいろはである。統合的方法で移民に対処するという緩やかな合意がヨーロッパにできつつあるといわれる。これは本書でも述べられている。
裏秀雄3と4の間に入れてください
2008/04/19 20:34
しかし統合的方法は合意であるが、これ自体が争点なのである。第4章から第10章はその具体例である。つまり統合的手法を軸とする合意と争点の複雑なダイナミクスがこの本に通底する大きなテーマなのである。この本書全体のメッセージをwakei氏は読み取れなかったのだろう。しかしそれは原文のせいでもない。訳文のせいでもない。専門書である本書を読むだけの素養がwakei氏に欠けていたのである。「原文は関係代名詞で結ばれた文章で、主節と修飾節の自制の関係が、正しく日本語になっていないために、こうした矛盾した表現になるのだろう」と英文法の浅はかな知識を披露するくだりは噴飯ものである。何をもって多文化教育というのか、多文化教育はどうあるべきか、という点については、いくつもの争点があるのだが、その点については、長い年月の実践から「合意」も形成されてきている部分もある、というような意味なのだろう。このような致命的な誤読しかできないものには論評の資格はない。ある程度の素養のある読者を対象とすることを編者が明言している本書の場合、社会科学のいろはを講義する必要はない。
裏秀雄3と4の間に入れてください
2008/04/19 20:36
注:繰り返しの得たとおり、ルヒテンベルク氏は「はしがき1」で「上級の学生、研究者、多文化研究のディスコースに関心を寄せる人々」を読者として想定しており、合意のある争点などないと平然と誤読するwakei氏のようなレベルの読者は想定外なのである。wakei氏のような人物は宮島喬先生の書かれた岩波新書を読まれればよい。何の予備知識もいらない入門書である。本書は違う。高度な専門書である。予備知識がいる。wakei氏が延々と書いていることは結局「私には移民問題はイロハもわかっておりません」という独白にすぎない。馬鹿も休み休み言ってもらいたい。
浦秀雄13
2008/04/19 21:54
しかし統合的方法は合意であるが、これ自体が手法や内容をめぐる争点なのである。第4章から第10章はその具体例である。つまり統合的手法を軸とする合意と争点の複雑なダイナミクスがこの本に通底する大きなテーマなのである。この本書全体のメッセージをwakei氏は読み取れなかったのだ。しかしそれは原文のせいでもない。訳文のせいでもない。専門書である本書を読むだけの素養がwakei氏に欠けていたのである。「原文は関係代名詞で結ばれた文章で、主節と修飾節の自制の関係が、正しく日本語になっていないために、こうした矛盾した表現になるのだろう」と英文法の浅はかな知識を披露するくだりは噴飯ものである。「何をもって多文化教育というのか、多文化教育はどうあるべきか、という点については、いくつもの争点があるのだが、その点については、長い年月の実践から「合意」も形成されてきている部分もある、というような意味なのだろう。」などと浅はかな誤読をしている。このような致命的な誤読しかできない低レベルの者には論評の資格はない。ある程度の素養のある読者を対象とすると編者が明言している本書では社会科学のいろはを講義する必要はない。
「裏秀雄3と4の間に入れてください」の二...
2008/04/19 22:13
お詫び:20時34分と20時36分にお送りしたものは、裏秀雄3と裏秀雄4の間に入るべきもので、論評の陳腐さを述べたものである。22時13分に送ったのは、20時36分に送ったものの修正版である。
なお、国家コンテナ理論についても移民政策の研究者の間ではかなり知られている。「「コンテナ概念」は「社会的」と「空間」を扱うのに、満足のいくものであり、十分であった」と最後に書かれているが、そんなによく知られているのだろうか。」などと自分が知らないことを正当化しないでいただきたい。この程度の原注で理解できないレベルの人間は本書の前に入門書を読むべきである。本書は専門書である。初心者向けの注を付ける必要はない。要は、シェークスピアを読んで理解できないものが、シェークスピアを無理して読む必要も、シェークスピア論を読む必要もないのだ。イロハもわからない人物が専門書を相手に「ここもわからない。あそこもわからない。訳のせいだ。原著者がドイツ人なのに英語で書いたからだ。」と狂言回しを演じるのは滑稽極まりないし、HPで公表しているというのもまた神経を疑う。
裏秀雄最終
2008/04/19 23:07
 コメントを書いても、返答しないということなので、書く意味があるかどうかはわかりませんが、とりあえず、このような批判がある以上、書いておくべきと思い、書いておきます。
 まず、原著の著者である人に対する非礼であるというのは、あなたの方が曲解しているのではないでしょうか。この本がすばらしい本であろうと感じると、書いてあります。この翻訳では、この著書の価値が判断できないと思い、すぐに原著を注文してあり、洋書なので、まだ来ていませんが、来たらすぐに、この翻訳と比較して、読み進めるつもりです。 確かに全部読んでいないのに、このような文章を書いたということについては、確かに言われる通りかも知れません。しかし、これは日々思ったことを綴るブログであり、本が公刊された以上、いかなる批判があることも、覚悟の上でしょう。私がここでブログを書いていることも、当然あなたのような批判があることも、覚悟の上であり、また、反応があったことは、喜ばしいことと考えております。
wakei-1
2008/04/20 00:07
 しかし、私があげた例についてのあなたの批判は、「訳文」という点については、妥当であるとは思えません。
 まず原著の使用言語については、この訳書には書かれていません。もちろん、英語から翻訳されたことは書かれていますが、共同著作である人たちが、英語使用の国の人でない者が含まれているのですから、その点の事情を説明するのが、私は通例ではないかと思いますが、いかがでしょうか。だから、可能性を想像で書いたのであり、それを確かめるために、原著(翻訳に使用した)を注文し、もし、ドイツ語で書かれたものがあるなら、それも注文するつもりでした。この訳文が、ネイティブの英語国民が書いたものではない文章を訳したということは、訳文から判断できます。訳書から判断できないことについて、疑問をもつことは当然ではないでしょうか。
wakei-2
2008/04/20 00:08
 次に、詳しく私の文章にコメントしているので、それについて、コメントを返しておきます。
 まず私は次の訳文を意味が何度読んでもわからない、と書きました。
 。「より複雑な移住パターンを考慮して研究がなされるべきであり、トランスナショナルな移住においては移民の世代を定義することはほとんど不可能なので、第三世代の移民は彼ら/彼女らのもともとの言語をあきらめるだろうという想定はもはや許さない。(42ページ)」
 あなたは、私がこの文章を「内容に関して」理解できないと解釈したようですが、この日本語が正確な訳文ではないに違いないということを意味していることは、お分かりではないのでしょうか。それはともかく、あなたの付けたコメントは、あなたが「専門家」であると自称しているわりには、ずいぶんと不用意な表現となっています。私は確かに移民問題の専門家ではないけれども、あなたのような不用意な表現はしたことがありません。
wakei-3
2008/04/20 00:08
 「しかし、移民政策を研究している者からすれば常識であり、一読して意味を取れるはずである。移民の世代と言語には関係があり、第一世代は母国で母国語で教育を受けている、第二世代は母国語で親との会話をするが、学校教育については(はじめから、ないしは途中から)移住先の言語で教育を受けている。第三世代は移住先で育った親に育てられ、移住先の学校で移住先の言語で教育を受け、母国語への執着や愛着は薄い。したがって移民も第三世代になると同化が進み、母国語への執着が薄くなるという、移民に関心がある人なら誰でも知っている通説がある。
 これはあくまで、通説であり吟味される必要はある。しかし原文ならびに訳文が言っているのは、この通説を下敷きにして、トランスナショナルな移住形態が世代の(母国語との距離の関連性の)定義を難しくし、第三世代は同化が進んで母国語の習得・維持に執着しないだろうという通説は通用しないということである。」
wakei-4
2008/04/20 00:09
 これがあなたの文章です。移民問題を扱うときに、「母国語」という言葉は、よほど厳格に限定しない限り、使わないのではありませんか?しかも、移民の第一世代、第二世代、第三世代というレベルの問題を扱うときには、そもそも「母国」なる概念も複雑な関係を帯びているわけであり、このような粗雑な言葉の使用しているあなたは、本当に専門家なのでしょうか。
 私が訳文を読んで意味が分からない、といったのは、もちろん、あなたが上にまとめたような内容であろうということは、「想像」していました。しかし、あの訳文からは、そうした意味であると「正確」に理解することは、何度読んでもできない、ということです。専門的知識を要求する本であれば、どんな粗雑な日本語を使ってもいいとでもいうのでしょうか。
wakei-5
2008/04/20 00:09
 ところで、上の文章のあなた自身の説明の中で、「この通説を下敷きにして、トランスナショナルな移住形態が世代の(母国語との距離の関連性の)定義を難しくし、」という表現を使用しています。なぜ、「(母国語との距離の関連性の)定義」と括弧内の言葉を挿入したのでしょうか。「世代の定義」では、意味が通じないから補ったのではありませんか?単に説明するなら、自分の説明文として表現すればいいではありませんか。
 「世代の定義」という言い方が、私には、「何度読んでもわからない」、おそらく、通常の読者もそうでしょう。それとも、専門家には、「世代の定義」も「移住形態が世代の母国語との距離の関連性の定義」も「同じ意味」なんでしょうか。私には、とうてい同じ意味にはとれません。つまりあなたは、訳文が正確だと書いているのに、実は不正確であることを、ご自分で示したのではないでしょうか。
wakei-6
2008/04/20 00:10
 カタカナ語については、一部同意されているようですが、注が不要だというあなたの見解は、私は同意できないということです。これは、感覚の問題かも知れません。少なくとも私がこれまで読んできた優れた翻訳書は、原語での意味と、それをカタカナ語にしたときの日本語の意味範囲が異なり、注釈が必要だという可能性がある場合は、注釈をつけている翻訳本が多い、ということです。専門家はわかるだろう、そうじゃない奴はわからなくてもいい、というような態度は、あまり優れた専門家のとる態度とは思えません。もちろん、原文の場合ではなく、「翻訳」の問題を言っているのです。原著の著者の姿勢を問題にするつもりはなく、それは原著を読んで判断することでしょう。
wakei-7
2008/04/20 00:11
 最後に「多文化教育には様々な定義があるにもかかわらず、合意が存在するいくつかの争点がある。」(34ページ)という訳文についてです。私は「「争点」というのは、「合意」がない場合にいうのではないのか。「合意」があればそれは「争点」ではない。」書いています。
 「争点のある合意」「合意のある争点」というのは、確かにあなたの書かれている通りだと思います。以下の章でそれが扱われているという点については、この時点ではまだそこを読んでいなかったので、あなたの批判を今の時点では、受けいれることにします。しかし、だからといって、上の訳文が適切な訳だとは、まったく思いません。つまり、やはり日本語としては、もっと適切な表現があるだろうと思います。原著が来たら検討してみるつもりですが、「定義」と「合意」と「争点」が並んでいることによる混乱があると、私には思えます。
wakei-8
2008/04/20 00:11
 以上を踏まえて、あなたの要求について回答しておきます。
 削除せよ、という要求は受けいれません。
 原著はすばらしい本であるに違いない、と私はきちんと書いてあります。しかし、この翻訳では、日本の読者に、それが十分には伝わらない、とあなたの文章を読んでも、依然そう思っています。専門的知識がある人を読者として想定している、というのは、「原著」においてと、翻訳の場合とでは意味が違うのではないでしょうか。英語で書かれた本が、英語使用者における専門的知識がある、という意味と、それを日本語に置き換えたときに同じ意味をもつのでしょうか。「日本語の質もとわずに」同じように伝達されると、あなたは主張されるのでしょうか。そして、ごく狭い専門家(この領域の専門家が全て入るとはとうてい思えないので)だけが、翻訳で理解できる、ということがあるとして、それを著者たちは肯定するのでしょうか。
wakei-9
2008/04/20 00:12
 私は、あなた自身が、この訳書にいろいろな表現上の欠点があることは、感じているのではないか、と思います。本当にこの原著を日本の人々に理解してもらうためには、より、練れた、親切な訳にして、新版を出すべきだと思います。多少感情的な表現であったことは認めますが、あなたの文章も相当感情的であり、かつ、専門家としていかがか、という表現もあります。また、原著者たちに、失礼なことを書いたとは思いません。優れた本だと思った(そういう点は、訳書から十分に読み取れました。)から、すぐに注文もしました。また、英語圏に生活したから、英語に全く問題ないなどとは思いません。やはり、ネイティブでない場合には、「文章」としては、不自然な表現が入ってくることは、あるのではないでしょうか。間違っているとか、そういう失礼なことは言うつもりはありませんが。 私の知っている語学の天才ともいうべき優れた世界的学者がいるのですが、(10カ国語程度、学問的レベルでの会話が可能です。)専門が日本と中国の文化で、日本にかなり住んでいましたが、やはり、「文章」は、間違っていないし、通じるけれども、不自然な表現が散見されました。
wakei-10
2008/04/20 00:13
 この訳書の場合、ドイツ語、英語、日本語という3つの言語が関わっている中での翻訳ですから、もっと慎重な検討が必要であったことは、私は否定できないと思います。多数の訳者間の調整が十分とは言えないものであったことも、書かれていたと思いますし。
 
 最後に、こんなブログの文章に、非常なエネルギーを使ってコメントを書いていただき、お礼を申し上げます。返答はないということで、必要もないでしょうが、私としては、原著の到着を待っており、いつになるかはわかりませんが、原著から学びたいと思っており、ブログに書くと思いますので、そのときにまた読んでいただければ幸いです。
wakei-11
2008/04/20 00:14
最後のコメントがまだメールで届かない段階で前の返事を書いたので、「コンテナ理論」について一言。当然、事前に調べたし、また、今回再度調べてみましたが、そんなに知られた理論とは思えませんでした。Ulrich Beck の著書に出てくるようですが、数種の百科事典に全文検索をかけても出てこないし、私の手持ちのグローバリゼーション関連の英文の著書数冊にも索引には出ていないようです。確かに知らなかった用語なので、(実質的な考えはわかりますが。)せっかく教えていただいたこともあり、ベックの本を読んでみることにします。
wakei-13
2008/04/20 01:19
 昨日は夜遅く帰ったら、裏秀雄氏の大量のコメントがあったので、それに対応したが、実は、裏氏のコメントはメールでも送られてくるが、最初に私が読んだとき以下のような文章があった。「裏秀雄3と4の間に入れてください」と題された中の、最後の文章だ。
「ある程度の素養のある読者を対象とすることを編者が明言している本書の場合、社会科学のいろはを講義する必要はない。」という部分だ。
 私は、原著を注文して、それが来てから読もうと思っていたので、途中までしか読んでいないが、それまではかなり丹念に読んだので、こんなこと書いてあったろうかと探してみた。しかし、それらしき文章はなかった。すると、その間に到着していたコメントに次のような文章があった。「浦秀雄13」の中で「注:繰り返しの得たとおり、ルヒテンベルク氏は「はしがき1」で「上級の学生、研究者、多文化研究のディスコースに関心を寄せる人々」を読者として想定しており」と書かれていた。実は、先に「明言」を探していたときに、ここを指しているのだろうかとは思っていた。
wakei2-1
2008/04/20 18:57
 やはり、そうだったと思ったわけではない。実は、この裏秀雄の「引用は」まったく恣意的なものであって、正しく原文を引用したとは言えない。だから妙だと思った。
 念のため原文はこうなっている。
 「教育と移住の領域の上級の学生、研究者、および多文化教育に関する現在のディスコースに関心を寄せる人々にとって、必要不可欠な文献となるのである。」
 これが正確な引用である。これは、裏氏の指摘するように、「読者」の想定であろうか。裏氏の私への批判は、この本は、もともと専門的な知識をもっている人を想定しており、だから、ある部分が理解できないというのは、知識がないためであって、そんな知識のない読者が理解できないのは、読者が悪いのだ、と言わんばかりの批判であった。
 しかし、その「想定」は、実は裏氏のいうようなものではなく、裏氏が想定している人たちにとっては、「必読文献となる」ということであった。そういう人に必読文献になるというのは、自分たちの行ってきた研究に対する自信のほどを披瀝したということだろう。
wakei2-2
2008/04/20 18:57
しかし、必読文献とはならないが、もっと多くの読者層を想定していると考える方が自然である。事実、バンクスという方が、「はしがき二」で、次のように書いているのである。
 「本書の価値に見合った広範な読者に本書が恵まれることを希望するものである。」(17頁)
 実はこの翻訳の文章もすこしひっかかるのであるが、ここでは問題にしない。はっきりと「広範な読者」に恵まれることを希望しているのであって、読者を限定しているようなものとは思われない。何故裏氏はこのように「引用」を恣意的に曲げているのだろうか。私には理解できないところである。
 裏氏はこの書物が専門学術書であると書いている。もちろん、それは事実であり、啓蒙書ではない。しかし、だからといって、かなりの知識のある者だけを想定するような高踏的な態度を著者や訳者がとっているのだろうか。
 特に、このような題材においては、むしろ専門的な知識をもっていない人が理解できるように表現していくことが、極めて大切であると私は思っている。
wakei2-3
2008/04/20 18:58
 少し体験的なことを書いておこう。
 私は1992年と2002年に1年間オランダに海外研修に行った。教育学の研究のためだった。裏氏は、詳細に知っているはずであるが、この1992年というのは、ドイツで移民に対する暴力事件が頻発した時期である。特に酷い事件だったのが、メルンというところで、トルコ移民の家族が放火されて全員死亡した事件である。これはドイツ内外で大きな政治的騒動を引き起し、私もドイツ、フランス、イギリス、オランダの新聞をたくさん買い求めて、この事件を追った。もちろん、私は移民の研究者ではないので、それまであまり知識はなかったが、この事件を通して、移民の問題を避けては通れないと自覚したのである。
wakei2-4
2008/04/20 18:59
 その当時、私がいたオランダは、移民受けいれの優等生のように考えられていた。特にオランダはドイツに複雑な感情をもっているから、メディアはこのときとばかり、ドイツ批判を盛んに行っていた。確かに、オランダは移民を多数受けいれ、かなり厚く保護して、生活可能になるような教育の機会を与えていた。また、子どもの教育では、イスラム教徒が多い移民が「イスラム学校」を創設できる仕組みがあった。だから移民の不満はおそらく他国に比較して、低いものだったろう。
 しかし、オランダ人の市民は決して、みんながそれを受けいれていたわけではなかったのである。やがて帰国する日本人ということで、安心して語ってくれたのかも知れないが、近所のオランダ人は、時々、移民へのあまりに厚い政策に憤懣を語っていたのである。オランダは小さな国なのに、なんでこんなに移民や難民を受けいれなけれどならないのか。我々はすごく高い税金を払っているのに、それがかなりの程度移民のために使われてしまう。我々の福祉はどうなるのだ、というわけだ。
wakei2-5
2008/04/20 18:59
 移民受けいれの優等生オランダは、大丈夫なのだろうかと思い、いろいろな文章に当時書いたが、しばらくは、そのままだった。
 しかし、2002年に再び訪れたオランダは、まったくといっていいほど違った側面を見せていたのである。私の渡欧する少し前に、フォルタインという移民制限派のポピュリスト政治家が、新党を結成して、総選挙に臨み、破竹の勢いを見せていたところ、選挙直前に暗殺され、911以来の反目が高まり、イスラム学校やモスクの攻撃・放火、そして、社会的な批判などが続き、他方、ゴッホの暗殺、ヒルシ・アリの亡命など、今ではオランダを移民受けいれの優等生という人は、ほとんどいないのではないかと思う。
 何故、こんなことを書くのか。つまり、1992年当時、政治家や専門家は、移民受けいれの高い評価を得ていたが、市民の深くに進行する忌避感情に気づいていたのか、あるいは適切で分かりやすい説明をしていたのかということだ。オランダ人は、寛容で、援助心に富んだ人たちだ。移民受けいれのもっと深い説明をする余地はなかったのか、と思うことは、まったくの的外れではないだろう。
wakei2-6
2008/04/20 19:00
 裏氏の書き方を見ると、知識のない者は読むな、あるいは、文句をいうなというように受け取らざるをえない。
 原著者と親しい裏氏のことだから、この本のことは熟知しており、多少訳文があいまいでも、正確な理解ができるのだろう。しかし、そうした背景がない一般読者は、戸惑うことが多い訳文であることは、私は間違いないと思う。裏氏の著作の説明は、全体としてもちろん正しいと私も思うが、少なくとも私の示した訳文の説明としては、私には反論の余地がまだまだある。面倒だからやらないが。
 
 しかし、専門家というのは、できる限り、一般読者に対しても、理解可能な措置をとるべきなのではないだろうか。裏氏は、カタカナ語の注はいらないと断言している。
wakei2-7
2008/04/20 19:01
 裏氏は次のように書く。
 
 「本書は専門書である。初心者向けの注を付ける必要はない。要は、シェークスピアを読んで理解できないものが、シェークスピアを無理して読む必要も、シェークスピア論を読む必要もないのだ。」
 
 因みに少なくないシェークスピアの訳書には、裏氏には不要らしいが「注」がある。私はとても便利だと思って、シェークスピアを読むときには、遠慮なくこの「注」から知識を得ている。
 それはさておき、「注」とは、初心者向けなのだろうか。私は、注があったほうがいいというとき、別に初心者向けということを意識しているわけではない。カタカナ語はその一例に過ぎないが、これとて、決して初心者向けということではないだろう。
wakei2-8
2008/04/20 19:01
 ハイデガー「存在と時間」の細谷訳には、詳細な訳注がある。もちろん、原注はもっとある。いくら裏氏でも、これが初心者向けとは言わないだろう。
 この本でも、ここに注を付けた方が、読者だけではなく、専門家や訳者のためにも良かったのではないかと思うところが、私が読んだ中でもいくつかある。カタカナ語だと誤解されるようだから、違う一例をあげよう。
 この本の基礎となっている概念がいくつかあるが、「移住」「移民」「移動」はその一例だ。人が居場所を変えていく現象は、多様だから、そこに様々な概念を当てることは当然のことであり、その多様な形態と他現象との関連性が章毎にテーマを変えて分析されていく。
wakei2-9
2008/04/20 19:02
 ところで、「移住」と「移民」は原著において、あるいは訳書において、「厳密」に定義されて使い分けられているのだろうか。
 イントロダクションは、この移住と移民の問題が前面に出た形になっているが、文章から移民と移住の定義を探りながら、読んでいくと、ここは移民ではないか、と思うところが、移住になっていたり、その逆があったりする。もちろん、私の誤読ということも多いにあるが、原文そのものがあいまいである可能性もある。
wakei2-10
2008/04/20 19:03
 例えば、この本の題は訳書では、『移民・教育・社会変動』で、原著は "Migration, Education, Change" である。ところが、69ページには、「移住の時代(age of migration)」という部分が出てくるのだ。原著をまだ持っていないので、正確にはわからないが、migration という英語を「移住」と訳したり「移民」と訳したり、異なっていることは確実だ。もちろん、概念規定が厳格になされ、その概念に従って、日本語としては、移住が適切だ、ここは移民が適切だというような使い分けが適切であることは、もちろん、私もあると思う。しかし、そうならば、それぞれの概念規定がどこかに書かれている必要があると私は思うし、それは決して、初心者のためだけではなく、専門家にとっても、あるいは、専門家にとってこそ、必要な手続なのではないか。英語では、それは不要な説明なのかも知れない。しかし、日本語で、「別の語」として訳し分ける以上、その概念説明があることは、理解を大いに進めるのではないか。
wakei2-11
2008/04/20 19:04
そういう注を私は欲しているのであり、そうした注作成の努力は、訳者たちにとっても有益なのではないかと、私は思う。
 
 長くなったが、最後に、私はこの本が優れた本であることは、一貫して書いており、ただ、訳文が改良されるべきであると感じる部分が散見されるということだけど。この本が大いに売れ、読まれることを望んでいるし、また、原著がきたら、できるだけ丁寧に、原文と英文を照らし合わせながら読もうと思っている。非常に勉強になるだろう。
 いろいろ考えるきっかけとなり、裏氏には率直に感謝の念を申し上げたい。
 以後、裏氏のコメントがない限りはこの継続としては書かない。
wakei2-12
2008/04/20 19:06
監訳者の山内乾史(神戸大学)です。先日未知の方(おそらくここで「裏(浦?)秀雄」と名乗る方)よりご連絡があり、このHPを拝見しました。
 まず、本書(訳書)を実際に手に取り、本書へのコメントを書いていただき、ありがとうございます。wakeiさんの記述、私への連絡後になされたであろう「裏(浦?)」氏の書き込み、wakeiさんのリプライ、すべて拝読しました。wakeiさんの個々の記述へのコメントや、「裏(浦?)」氏とwakeiさんとのやり取りへの感想は控えさせていただきますが、wakeiさんの記述、リプライは、全体として「原書は良書だからもっといい訳をして再び世に問え!」という監訳者、訳者への叱咤激励、エンカレッジメントと理解しました。訳者を代表してお礼を申し上げます。ありがとうございます。原書を評価されることは、この本を選んできた私にとって大きな喜びです。他の訳者もそうでしょう。
500字ということですので、これで失礼しますが、何か本書へのご意見、ご批判があれば遠慮なく、yama@kobe-u.ac.jpまでご連絡ください。
それでは、失礼します。
お礼
2008/04/21 07:04
 以前から、原著と翻訳の差異が酷い書籍は多いとは思っていますが、こういうのは仕方ないと私は諦観しています。
 なにより、翻訳者の主観論を排斥するための翻訳技術はまず、母国語の理解と、翻訳対象の言語のニュアンス、価値観などの影響を過分に含むわけですから。
 ただ、私もこれは酷いと思う訳文はよく目にします。
最近では、ロールズの「正義論」の翻訳に辟易して、
「原著じゃないとダメ」と生徒に指導してしまったくらいですw

やっぱり、原著を読むしかないように思うのです。そう思って、私は原著を優先するべきか?ということを師事している人に聞いてますw
冥王星
2008/08/24 14:14

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「移民・教育・社会変動」を読む。しかし、あまりに翻訳が・・・ 教育と社会を考える/BIGLOBEウェブリブログ
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