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zoom RSS 大阪府教育基本条例案検討7 体罰容認の規定は結局学校の暴力を誘発するだけだ

<<   作成日時 : 2012/01/21 22:43   >>

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 教師の懲戒について詳細に規定したあと、条例案は、生徒の懲戒についても規定する。

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第四十七条 校長、副校長及び教員は、教育上必要があるときは、必要最小限の有形力を行使して、児童生徒に学校教育法第十一条に定める懲戒を加えることができる。但し、体罰を加えることはできない。
2 府教育委員会は、前項の運用に当たっての基準を定めなければならない。
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 この規定は、端的に「体罰の容認」と見ることができる。「体罰を加えることはできない」と書いてあるから、体罰は禁止しているのではないか、と読む人が多いかも知れない。しかし、日本の明治以降の教育の歴史を見れば、体罰禁止の法令が一貫してあったにもかかわらず、体罰は学校で横行し、絶えず体罰容認論が流されてきたことを忘れてはならない。
 もちろん、基本条例案は、そうした一般的な風潮としての体罰容認論ではなく、もっと進んだ容認論となっている。それは「有形力を行使して〜〜懲戒を加えることができる」という文章に現れている。そもそもこの「有形力の行使」という言葉が体罰関連で使われたのは、水戸5中事件の東京高裁判決で、「有形力の行使が許される」という内容が書かれて以来のことである。東京高裁判決は、体罰禁止を前提としながらも、有形力の行使が許される場合があるという一般論を述べたのだが、それが、体罰擁護論者が、体罰容認論として大歓迎されたのである。だから、「体罰を加えることはできない」としながらも、「有形力の行使」ができるとし、「基準を定める」としているのは、事実上体罰であるのに、有形力の行使に過ぎないという言い方で、体罰を容認するという形をとる宣言と解釈することができる。

 産経新聞1月21日では、石原慎太郎が、いいかげんな体罰論を展開しているが、結局、体罰賛成論というのは、論理的に極めていいかげんなものなのだ。石原氏は、「体罰は一種の刷り込み。刷り込みは肉体的に苦痛を伴うかもしれないが、それをやらない限り、本当の教育やしつけできない。軟弱な地盤に高層ビルを建てるようなものです」と述べたあとに、すぐ「悪いことをした生徒を立たせるのが体罰ですか。懲罰かもしれないけれど、体罰ではないでしょう。」などと述べている。「立たせるのは体罰ではない」からいいといって、いかにも体罰ではない懲罰を支持しているかのように言い、しかし、体罰はしつけの基本だなどと述べている。こういうのを支離滅裂というのだろう。石原は橋下氏をおおいに参考にしたいようだが。

 体罰の問題が、法的に禁止されているにもかかわらず、絶えず容認論が出てくるのは、教育学の弱さという面もあるだろうが、懲戒に関する法的規定そのものに問題があると感じている。
 学校教育法は、懲戒の原則を次のように規定している。

第十一条  校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。

 そして、学校教育法施行規則は、次のような規定をしている。

第二十六条  校長及び教員が児童等に懲戒を加えるに当つては、児童等の心身の発達に応ずる等教育上必要な配慮をしなければならない。
○2 懲戒のうち、退学、停学及び訓告の処分は、校長(大学にあつては、学長の委任を受けた学部長を含む。)が行う。

 ここで見る限り、懲戒の概念にふたつの異なった要素が混在していることがわかる。ひとつは、「退学、停学、訓告」であり、それは校長のみが行うことができる。しかし、通常の組織で見られる懲戒とは、そのようなものであるのに、学校での懲戒については、他の懲戒概念が存在し、かつ実行されているのである。それは、教師が加えることのできる懲戒である。実は、体罰容認論者がよく引き合いに出すイギリスの「体罰」は「教師が加える懲戒」ではない。体罰を行うことができるのは校長であった。(もちろん、現在は禁止されている。)体罰が加えられるときには、必要な手続が決まっていた。
 懲戒としての体罰が禁止されているにもかかわらず、教師の体罰が懲戒として行われるのは、教師に懲戒権が付与されているからなのである。だから、教育的には、「指導」が、教師にも生徒にも懲戒と意識され、懲戒的色彩を強くすることによって、次第に体罰的な要素が濃厚になっていく。それが教室での教師による体罰といえる。
 私の見解では、学校教育法の懲戒規定から、「教師」を除くべきである。教師には懲戒権を認めない方がよく、懲戒権は校長にのみある、教師に行うのは、あくまでも「指導」であるべきなのだ。どう違うのか。
 指導は、教育活動の一環だから、教育的効果がなければならない。しかし、懲戒は、生徒が悪いことをした罰だから、「教育的効果」が問われない。
 宿題を忘れたものが、グランドを走らされる、などということは、昔は珍しくなかった。懲戒だったわけである。懲戒として行われるのだから、グランドを走らさせると、忘れ物をしなくなるかどうか、などということは、効果として検証されることはないし、誰もそれを問うことはなかったわけである。しかし、忘れ物指導としてグランドを走らせることが、忘れ物を減らしたということがなければ、間違った指導と評価される。
 教師が生徒に対して行うのは、すべて教育的指導であり、懲戒はすべて校長が責任をもって行うようにする。そうしてこそ、秩序が保たれると、私は考えている。そういう点での権限は、校長に強く与えてよい。

 しかし、大阪府教育基本条例案は、教師が懲戒権を行使して、生徒を管理することをめざしている。教育的にはもちろんマイナスであるし、それが実践されたら、再び学校における暴力が増加することは、間違いないだろう。

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「適切で十分な愛・教育」を受けないまま大人になった人ほど、体罰を肯定する。
体罰は指導力・説得力・忍耐力・想像力が乏しい無能な教育者による責任転嫁に他ならない。
虐め・虐待にも通じる「言って聞かなければ叩くしか」「愛ある体罰もある」等の論理的間違いを解説@感情自己責任論

2012/07/25 21:28

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