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zoom RSS 電力会社経営陣の勇気の欠如

<<   作成日時 : 2012/05/07 20:35   >>

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 ついに、原発稼働がゼロになり、またまた夏の電力不足が話題になっている。当然だろう。実際に電力があるのだとか、ないのだかとか、ちゃんと情報公開されているわけではない状況だからはっきりしたことはわからないが、少なくとも電力供給の4割以上を原子力に依存していたらしい関西電力ではかなり厳しい状況であることは事実だろう。

 そして、原発稼働をめぐって政府・電力会社・自治体、住民、周辺住民等の駆け引きや主張が行われている。メディアも産経などは、ずっと以前から、原発稼働させないと大変なことになると主張している。しかし、少なくとも稼働派の主張は、何故住民、少なくとも原発で働いている人ではない住民が、安全感覚をもてないかについての、まとも議論をまったく欠いている。現在、原発に対する「安心感」がまったく生まれようにないのは、原発の危険性があったにもかかわらず、安全だという安全神話がメディアや学校教育を利用してまで振りまかれていたこと、(文部科学省は安全神話を叙述したテキストを何の断りもなしに、サイトから削除し、少々冷静なテキストに切り換えている。なぜ、なのようなテキストを書いて、学校に遣わせていたのか、そのことがどのような結果をもたらしたのか、全く説明責任を果たしていない。)そこに、多くの「専門家」が動員され、実際に原発事故が起きていた時期においてさえも、多くの専門家がテレビに出演して、たいしたことはないという説明を語っていたこと、実は実際に福島原発の津波に対する脆弱性は事前に指摘されており、対策の改善が専門家や共産党などから要求されていたにもかかわらず、それを「無視」していたために、危険の指摘が現実化してしまったこと、これらの一連の明らかに「犯罪的安全配慮義務の欠落」に対して、誰も、東電はもちろん、当時の政府、保安院等、ひとりも「刑事責任」を問われていないこと。以上のようなことが、不信感の土台にあるわけだ。産経新聞などは、社説まで書きながら、決してこの当事者の責任を問うことはしない。逆に、既に起きてしまったときに、誰がやっても完全な制御などは不可能だったにもかかわらず、当時の管首相などの責任追及には熱心である。

 以上のような状況がある以上、政府や東電や、保安院も専門家が、いくら安全が確保された、ストレステストで大丈夫だなどと説明しても、信頼する人は、もともと原発に利害をもっている人だけだろう。説明している人たちこそが、とんでもない安全神話を振りまいた人たちだから、当たり前のことである。

 では、絶対にこれを打開することはできないのだろうか。
 私は、ふたつの方法が打開可能性があると思っている。最も、私は原発反対論が基本であって、再開が好ましいとは思っていないが、運転させなければ安全だというのは、全くの誤解であるので、まだ十分に耐久年数のたっていない原発に関しては、最大限の安全を配慮して稼働させてもいいかと思っている。稼働させていないから安全対策を放り出すという危険も大いにあるからである。

 ひとつの打開可能性は、「強行突破」である。その場合、原発に雇用されている従業員(それは地元住民でもある)からの切実な「働きたい」という訴えを利用するだろう。そして、反対は押し込める。これが一番可能性が高いが、もちろん、そんなやり方は大きな政治問題になるし、今後様々な弊害をもたらすだろう。

 他のひとつは、結局、国民の「安全に対する信頼感」が問題である以上、最も信頼感を取り戻すために必要なことをするということである。結局、専門家や政府の人たち、電力会社の重役たちが、いくらいっても信頼できないというのは、昔から言われていたことで、安全ではないから、大都会から離れたところに設置する、つまり、偉い人たちは安全地帯にいるということが、彼らの言説を胡散臭いものにしているのである。であるなら、最も有効な対応は、彼らが「人質になる」ということだ。
 江戸時代の参勤交代というのは、大名の家族を人質にとっていることが前提になっていた。幕府はこの人質によって、安全を最大限確保できると思っていたわけである。
 もし、電力会社の重役たちが、実際に原発の敷地内に住んでいたら、お金を惜しまずに最大限の安全対策をするだろう。福島原発だって、共産党によって指摘されていたことを、きちんと実施していれば、あのような事故にならなかった可能性もあるのだ。
 現在の技術では、本当にコストを惜しまずに安全対策をすれば、私はかなり安全なのだとおもっている。しかし、コストを会社は惜しむのが普通た。押しませないための保障が、「重役の人質」である。

 私は、逆に、このような対応を、電力会社自らが提起し、住民に訴えることをしないことが不思議だ。ヘーゲルが、結局歴史を動かすのは、偉大な人物の「情熱である」と述べたらしいが、もし、電力会社の指導者たちに、本当に日本の電力を支えるという情熱があれば、自らそうした提案をするのではないかと思うし、そこまでやれば、住民感情もかなり変化すると私はおもっている。

 しかし、これまでの電力会社の経営陣の行動をみている限り、彼らにそんな情熱と勇気はないのではなかろう。それならば、やはり、安全神話を受け入れるわけにはいかないだろう。神話ではなく、本当にやれることをやりきることが必要なのだろう。安全のためには。

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