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zoom RSS まとまらないが、川崎の事件で考えること

<<   作成日時 : 2015/03/07 22:21   >>

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 少し前に、片野次雄『李朝滅亡』(彩流社)という本を読んだ。朝鮮の李朝が滅びる歴史を描いたノンフィクション的小説だが、そこで果たした日本の役割には、滅入ってしまうような場面がたくさんある。欧米に強いられて開国し、なんとか列強になろうと模索するなかで、列強が日本に対して行った以上の抑圧的な政策を李朝に対して行い、最終的には滅ぼしてしまうのだが、ここには、強い存在に圧迫されたものが、弱いものを圧迫していく構造が、国家レベルで明瞭に現れている。このメカニズムは、国家だけではなく、組織や個人にも現れるものだろうが、社会が共存していくためには、できるだけこうしたメカニズムを弱めていく必要があるのだろう。
 しかし、残念ながら、現在の政治は、まさしく明治の政治構造を引き継いでいる。金持ちを優遇し、福祉を削る。災害が起きても真剣に対応しない。そんな政治が続いているのである。
 川崎の事件は、まさしくこのメカニズムが最も醜悪な形で、市民や子どもの中で現出したのだと思われる。18歳の少年は、かつては弱く、攻撃される存在だったが、グループのリーダーになることで、弱い者を虐げる存在になっていった。おそらく彼らは、平等な関係の中で、認められ尊重されることがほとんどなかったのではないだろうか。加害者の親も被害者の親も、また、十分な愛情を子どもたちに注いでいたようには見えない。広い意味での虐待(特に放置)が行われていた可能性が高い。
 そうした広く行き渡っている強者と弱者の多層の連鎖を、可能な場で、可能な限り断ち切っていく必要がある。そうしないと、この種の事件は、弱い環で繰り返されるだろう。
 学校は、その意味で非常に重要な場だろう。
 近年、「スクール・カースト」という言葉が流行っているだけではなく、「スクール・カースト」を利用して、子どもの指導をするのが「便利だ」というような感覚が、教師の間に広まっているとも言われている。若い研究者鈴木翔の『スクール・カースト』という本がベストセラーになったりしている。学校には、上位・中位・下位という3つの層が固定的、かつ支配関係としてできているという分析だけではなく、現場の教師のインタビューが、カーストを利用して学級経営をするという姿勢を露骨に示しているひとたちで占められており、寒々しい気持ちになる。
 子どもたちを民主主義社会の主体として育てるためには、スクールカーストがあるならば、それを壊し、子どもの間に平等な関係を築いていく教師の実践が求められているはずである。そのための核となりうる理論は、ハンナ・アレントによる「人間の条件」で示された「活動」の要件であると、最近強く思うようになった。「自由な自己表現」「個々人の差を当然と認める」ような学級集団を作り上げれば、カーストなど存在しなくなるだろう。しかし、それはあくまでも「条件」、正確には「必要条件」であって、「十分条件」ではない。では、十分条件は何なのか。
 それは、能重真作が「ブリキの勲章」ではなく、「本物の勲章」を獲得できることといった「各人が自分にはこれがある」と感じ、それを周囲が認めるような何かをもつことができるようにすることだろう。
 おそらく、18歳の殺人犯は、「本物の勲章」をもつことはなかったのだろうし、また、そういう指導も受けたことがないのだろう。そういう意味で、同情の余地、更生の余地はあるように思われる。

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